私は聖書を読まないし、教会にもいかない。
ただ、神の意志、御心を感ずることがある。
それが、聖書、イエスそのものとも思えないが、間違いなく自分のそばに神は在る。
パライソにいけば苦痛や悩みから解放されるとも思わない。現世にこそ、喜びはある。
折にふれ、神の意志は感じる。
すべての人々の心の中にある神性に教えが繋がったとき、信仰がうまれ、信徒となるのであろう。
ロドリゴのなぜ、あなたは沈黙しておられるのですか、というイエスへのきびしい問いかけへの答えは私は持ち合わせていない。
パードレが神を疑うことなどあり得ないとして、基督教会が遠藤周作のこの作品の文学賞の受賞に圧力をかけたとあるが、
あってはならないことだ。
信仰の強さと人間の弱さの中での心の葛藤と格闘と、赦し、神への問いかけ、がこの作品の主題となっている。
ロドリゴが幾度となく問いかけるように、迫害と弾圧の中での命がけの布教と、平和な幸せな時代の布教とは全く違うもので、
信徒たちの命と引き換えに棄教を迫られたロドリゴを非難する資格はだれにもないはずだ、と感じた。
目の前で逆さ吊りにされ悶え苦しむ信徒たち、簀巻きにされ海に投げ込まれる信徒たちを見捨てて、自らの信仰を守ることをイエスはパードレに命ずるのだろうか。
司祭たちは死を怖れてはいるのではない。
自分のために簀巻きにされて、海に投げ込まれる信徒を救おうと海に飛び込み、信徒にすがるガルべの体を役人が棒でついてもろとも沈める、、、
ひっそり信仰を守って暮らすキリシタンに対する幕府の肉体的な拷問もさることながら、パードレたちを棄教させるため、パードレたちにではなく信徒たちを拷問にかけることにより、階段を一段づつ上がるような狡猾なやり方でパードレたちを精神的に追い詰めていく過程に胸が締め付けられる。
日本最大の一揆であった島原の乱を契機に黙認されていたキリスト教を危険思想として禁制し、棄教の強制と弾圧に転じた時代背景のなかで起きた、かずかずの殉教と棄教。
フェレイラの、この国の信徒たちが信じていたのは我々が信じているキリストの教えではなく、ゼウスは大日如来のことだ、というくだりも考えさせられる。
村人のモキチ役の塚本晋也の真摯でひたむきな演技が光っていた。素朴で力強い信仰をもつ農民を好演していたほか、通詞の浅野忠信とパードレとのやりとりは見ものであった。
パードレに告白する片桐はいり、看守のプロレスラー高山など、この作品に必要だったのだろうか、という思いもある。
キチジロウ役の窪塚洋介については、役柄が極めて困難につき、評価は差し控えたい。
自ら敬虔なカトリック信者であり、パードレになろうとしたこともあるスコセッシ監督に感謝する。
五島や平戸の信徒たちにご加護あらんことを。