東欧の一人旅~プラハ Prague~

おそらく私が訪れたヨーロッパの都市の中で最も落ち着いていて美しい街だろう。


ところが、この町は一人旅には向かない不便な町で珍しくいらついていた。それで同じようにコインロッカーがなく困っていたバックパッカーのブラジルの若者に声をかけ、プラハの印象を尋ねると吐き捨てるように「Not Modern」と返事が返ってきた。つまり、何もかも古臭くひなびた田舎に見えた。


日本人と会うこともなくそろそろ日本語でおしゃべりしたくなった。それまでは「会話はしたがおしゃべりはしていなかった」、「募集はしたが募ってはいなかった」状態だったから。

そこで日本人らしき一人旅の若者をつかまえて一緒にビアホールにいくことにしたのだ。


そのころからわたしの体は「ビールでできていた」から500年からの歴史を持つビアホールは楽しみで町が古色蒼然としていようとノットモダーンであろうとどうでもよかった。

調布に住む一橋大学の3年生だった。明日からレンタカーを借りてお城巡りをするんだとかでじゃあ渡りに船でレンタル料とガソリン代をはんぶんこもつから乗せてってよ、となった。


神聖ローマ帝国で飲む黒ビールの味は格別でぐびぐび思う存分ジョッキを空けた。

そしておきまりのご常連さんたちに突撃取材することにした。


6人くらいのテーブルに合流しフランケンシュタインみたいな大男やらアル中ハイマーおやじとうだうだ話している中でチェコでは「ナベサダ」が人気があることがわかった。


そして、フランケンシュタインは一橋が筆談で使っていたデジタル時計つきのボールペンを見て、ヤーパン(日本のこと ドイツ語圏だった)は科学が進んでいる、それに引き換えチェコはこんなだと、やれやれという顔をして両手の手ひらの片方の手を大きく下げてみせた。

黒ビールがぶ飲みしたのに真っ赤になった私の顔を指さしてフランケンは「Rot!(ロート=赤い)」と笑いやがった。

そして、しこたま飲んだあとトイレにいくと、おしっこトイレが日本と違って朝顔がずっとずっと上のほうにあって、173センチのおやじであっても小便小僧のように背伸びして上向きに噴射しないといけなかった。


北欧並みに男女とも背が高く、チェコの女性と菅総理大臣が歩くとおさるのジョージを連れて散歩しているみたいになる。


韮崎に住む高校時代の友人は短足で鳴らしていて柔道での安定感は抜群だった半面「ジーンズ買いに行ったら1本分で2本とれる」と揶揄されていたほどだったから、たぶん彼ならおしっこ用にお子様の踏み台が必要だったろう。

席に戻ると先ほどのデジタル時計のついたボールペンのことが気になるらしくフランケンのは不思議そうにボールペンをしげしげと手にとってながめていた。


すると、トイレに行ってくるといってボールペンを手にしたまま席を離れた。


なかなか戻ってこない。

どうやらやつは持ち逃げしたらしいことがわかった。

アル中ハイマーに友達はどこへいったと睨むと、「ともだちじゃない」という。うだうだ飲んでいて同じ席になっただけだと、うそでもなさそうだった。


旅先ではとんでもない人と出会うことがある。

一橋も23才かそこらで国際免許とって、レンタカーでチェコを回ろうとしているすごいやつだった。こんなわかものが将来の日本を背負って立つのだろうと思った。


お城巡りのあとピルゼンに向かう列車の予約で市内のツーリストビュローにいって交渉しているとき満席でうんじゃらかんじゃらとかいわれてもたついていると(特急列車は自由席は少なく予約席がほとんどだった)ウイーン在住の日本人が「かわって話してあげようか」と間に入ってくれた。


無事予約できたあと、おじさんはホットチョコレートをおごってくれた。そしてお礼をして別れた。


その後帰国し、東欧の様子のありのままを一部始終家族に伝えた。

妻の姉夫妻は団塊の世代で学生運動をしていたから問題のあったソ連や中国はともかく東欧には好意的であった。


そのありさまを信じようとせず「日本人も暗くしあわせでない顔をして暮らしている」だの「医療や教育が保証されていて華やかではないかもしれないが暮らしやすいはずだ」と。

2人は大学の教授となりその後活躍することになるのだが、この人たちに話してもいくら説明しても無駄だろうとその話はそれまでにした。


そして、プラハでお世話になったカメラマンの話をしたら、それは「田中長徳」(ちょーとく)さんといって国際的に著名なカメラマンではないかということになった。いまと違ってネット検索などできない時代。そしておくさんがピアニストで、、、

するとその場で話を聞いていた義母はなんと長徳さんのおくさまと知り合いで近々彼女のピアノリサイタルに行くことになっていて、ほらとすぐに引き出しからだしてちらしとチケットを見せてくれた。


まさかあろうことか上野の東京文化会館で開演前のホールで田中ご夫妻とお会いすることができた。

ついこないだのことでもあってよく覚えてくれていた。奇遇とはこのことだ。

カメラマンで知らない人のいないライカに魂を奪われた日本の第一人者だった。


「ビロード革命前は大切なことは、電話で話さない。手紙に書かない。酒場で話さないことが常識だった街」での出会い。

お元気な姿を久しぶりに。

 

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

2 Comments

  1. Абсолютно все наши претензии на то, что жизнь каждого человека сложна и нестерпима, современные роптания насчет такого, чего мы лишены, совершаются от нехватки благодарности за то, что у нас есть. Премногое спасибо за Все ваши заметки!

    1. アルセニーさん、投稿ありがとうございます。

      Мистер Арсений.
      Спасибо за ваш пост.

      Есть много проблем в Японии, но они не критикуют правительство в барах или лишить их свободы.
      Я должен поблагодарить вас, не думая, что это естественно.

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