「武蔵野事典」発刊 2020.9初版

仕事のお礼に執筆関係者より寄贈を受けた。

武蔵野にまつわるバイブルといってもよい689ページの大著で各界の専門家による共同執筆。

武蔵野にフォーカスされてはいるものの、江戸、東京とのかかわりなしに語ることなどできるはずはなく、どう江戸が開かれ周辺部に膨張し開拓されていったか、どう東京に受け継がれたか読み物としてではなく記述の多くは歴史に多く割かれ史実をもとに詳述されている。


古代中世はさておき江戸、東京の資料がガイドブックでは飽き足らずもっとガツンとした資料を渇望していたおやじにとって渡りに船のお江戸百科事典だった。


一般的なお話としてではなく、数字をあげ、時期を特定しだれがなんのために何をした、が克明に記述されている。


築地の歴史もおもしろい。「築地居留地」の項をみてみる。

もともとは明暦の大火ででた瓦礫で砂州(鉄砲洲)埋めた土地。

そこに大名の上屋敷をおいた。大名屋敷の敷地が不足していたためである。

新富町と月島の中間にいまでも「築地明石町」という地名があるが、

そこに赤穂浅野家の上屋敷が新築され内匠頭はそこで産まれた。

浅野家はその屋敷の対岸に見える佃島を播州から臨む淡路島に、大川(隅田川)を明石海峡に見立てたことからその名がついた。


その後の苦難を前に内匠頭や浅野家の家臣たちが江戸の地でふるさと赤穂の風光明媚な景色を懐かしみすごした光景が目に浮かぶ。ファミリーマートの「築地明石店」のスタッフたちは知っているのだろうか。


そして幕末の開港でこの地が指定されて外国人居留地となり、教会、病院、学校が設立された。

築地明石町は慶應義塾、雙葉学園、暁星学園、立教大学、青山学院、立教大学の発祥地で、築地の聖路加病院のルーツもこの地。

浅野家上屋敷の東隣が大分中津藩の中屋敷で福沢諭吉がそこで蘭学塾を開いた安政5年の1858年を慶應義塾の創立年としている、、、


どうですか。歴史の風景、景色が土地と人々とからみあって連綿とつながっていきます。

 

こんな記事もあります。


「江戸周辺の地域は将軍家や御三家の鷹場となった、将軍や大名の鷹狩のために、村々は様々な規制を受け、鷹場制度の維持のためにオケラやエビツルムシ*などを鷹方役所に納入するなどの負担もあった」

村人がオケラを集めていたなんて、、、

*渓流釣りの餌として最高なのがエビツルムシらしい

ありがたくすみずみまで読ませていただきます。

2020.10.29

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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