「お城のあるまち」松江と江戸

松江は堀尾氏が慶長16年、1611年に築城するまで出雲大社を擁する神話のふるさとのただの小さな農村漁村にすぎなかった。


上の図は1644年に幕府が諸国に命じ、城郭図などをつくらせた「正保の郷帳・図絵図」。

国立公文書館アーカイブス

(出雲国松江城絵図(いずものくにまつえじょうえず)

「正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵しました。幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』には131鋪の所蔵が記録されていますが、現在、当館では63鋪の正保城絵図を所蔵しています。昭和61年(1986)国の重要文化財に指定されました。
原図サイズ:東西274cm×南北324cm」


全国の大名の極秘情報であるお城(要塞)のつくりがわかるように幕府は地図をつくらせた。天下統一の権力を背景にいやでも従わざるを得なかった。

幕府の親戚であった松江藩はともかく外様大名の反応はどうであったろう。


「水郷松江」。いまにも氾濫しそうでいか治水に苦労したであろうかが見て取れる。

大きい橋は大橋川1か所、橋の南詰(上)に寺院を集め防衛拠点とした。

左の木立が売布神社でその近くがおいらの生誕の地だ。

当時は大橋川の流域で埋め立てたのだろう。


江戸城の築城と時期が重なる。

江戸には平地はなかった。武蔵野台地の東のがけっぷちにあってその先は隅田川が氾濫を繰り返す葦が茂る湿地帯だった。

徳川家康がここに幕府を開くと叫び、本格的な城下町とするために日比谷の入り江を人力で神田の山を切り崩して埋立て、いまの下町の湿地帯に土を盛り、運河や河川を整備し橋を架け造成していった人工都市である。(1457年の太田道灌による江戸城の築城はあったとして)


中世からの遺構はあるものの開府当時はおよそ文化的な遺産に乏しく、無理くり大名たちを強制移住させ、お姫様を人質に取り、そして町人たちが蝟集して出来上がった、というより人為的に作り上げられた町だ。

松江も江戸もまずお城からはじまっている。


武将が宍道湖を見渡す山の上に登って宍道湖を眺めながら、宍道湖が大橋川となって流れていく付け根に「ここに城を築くのがよかろう」と決めた。

お堀をめぐらせ、あくまで防衛のための城づくりをした。

私が幼少のころ、1960年代にあってもヤマタノオロチの暴れ川である出雲の国の斐伊川の機嫌が悪いと宍道湖は氾濫し、大橋川の近くだった生家は浸水し水浸しになった。水が引いたあと市は白い消毒剤を家中に撒いた。

ちょうど隅田川の氾濫に悩まされた江戸のように。

ともにもともとは湿地帯でいい土地柄ではなかったのであろう。

江戸はその後上水道を整備した世界一の人口をもつ大都市になった。


爾来松江は今に至るまで月のように目だたぬよう山の陰にかくれて遠慮がちにひっそり暮らしてきた。その遠慮がちで控えめな人々の中にある日本の美や佇まいを見つけてしまったのはシャイで伏し目がちでかわりもんのひとりのちっこい西洋人で松江は彼をたちまち虜にしてしまった。松江が魔法をかけてしまった。熊本大学に転勤したとき魔法がとけて目が覚めたようだがもう後の祭り。

流浪の末、明治の神国の都の虜にされるために日本にやってきたも同然であった。

のんびりとして穏やかで茫洋とした城下町だけど魔法を使う。

出雲大社 門前 「竹野屋」 2020/10/25

妹夫妻はしっかりもので男勝りの未婚の娘に、弟に先を越された娘に、幼稚園の主になってしまった娘に、どうかいいご縁がありますようにと毎年「竹野屋旅館」に泊まり、25円を賽銭箱にこれでもかと投げ続け出雲大社に祈るような気持ちで、じっさいに祈ってはいるのだが、ご縁の願をかけている。


さいきんあってはならないことだが、妹夫妻のこころに出雲の神様に対する「不信感」のようなものが芽生えてきている。

ききめがないのではないか、社会的な立場もありそうとは決して口にはしないが、その語り口や表情からその信心に迷いが読み取れる。

出雲大社の神様はその信心の曇りを見逃すはずわけもなく、チェックシートに記録し、神在月の検討会議で審議していることだろう。

 


松江を離れて50年以上がたつ。

それでもお城や神社やお寺やを訪れるたびに、そしてお蕎麦を手繰るたびに、川や湖面の風を頬に受けるたびに松江をおもいだす。

心にしっかり根が張っているかのような不思議な町である。


そうして、開発や成長と無縁の後進県の首都であることを心配し、動きがあればあったでどうぞかわらずそのままでいてほしいと願う。


さきの気難しい西洋人はろくでもない原子力発電所より、中海の不要な淡水化干拓事業なんかより大切な松江の、日本の至宝であって、1890年8月に英語教師として着任して以来、松江の恩人として130年経ってもなお松江に湖面の夕日のようなやわらかな微笑みをかけてくれている。


宍道湖の夕日を前にするとかならず、

あなたなら今日の赤く染まる、うつろう雲と夕陽をどう書き描きますか?

あなたの目にいまの日本、いまの松江はどう映っていますか?と問いかける。

するとかんしゃくもちで一本気のイギリス人は「なんぼう、よくないです」といって悲しそうに首を振るのだ。

2020/10/25


取り返しのつかない政治判断、地域開発の最大の誤りは中曽根康弘主導のもと地元が地盤の自民党中曽根派の桜内義雄通産大臣と兄弟の中国電力社長桜内乾雄とで1966年に誘致を決めた島根原発とセットで計画された中海淡水化事業、この二つである。


江戸は幾度もの大地震と大火事で灰燼に帰しながらもそのたびにたくましく蘇生し復活してきた。

東京がもとはといえば寒村であった江戸をルーツとする、そして最後の城下町であるということを意識するようになったのは最近のことで同じような政治的な城下町で生まれ育ったこと、松江の社寺だらけの原風景が江戸の遺構としっくりと重なりつつあるからである。


「城山」(「じょーざん」、といっていた)お城が遊び場だった子供時代、毎日のように息をのむような宍道湖の景色を眺め、湖面を渡る湿った風を受けながら過ごしたあの日。

いま思えばなんとぜいたくな、夕日にとろけるような日々だったろう。

松江に限らず熊本、姫路、松本など「お城のある町」は特別で、お城を見上げるとお殿様が天守閣からいまでも領民たちのことを見守ってくれているような錯覚を覚える。

江戸城は明暦の大火(1657年)で焼失した。燃えてしまったけどもう天下泰平で必要ないし建て替えんけんね、といってそのまんまにしてしまった。


ゴーツートラベルを使って今月松江を再訪する。

松江は幸運にもおろかな再開発などで壊されることなく、少しもかわらず「どうしちょったかいねー」と私を待っていてくれるだろうけれど、私の方はといえば心境の変化が著しく、ねじくれたり、ひねくれたりしていて松江の方が喜んで受け入れてくれるかどうか心配だ。64才のときの2020年の松江をカメラに収めてこよう。

2020.11.3

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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