保科正之と火葬

水戸光圀とならぶ江戸初期の名君と言われながら知名度が低い保科正之。領民に慕われ現代では死語となった感のある「謹直」(つつしみ深くて正直)と評される人柄。

関ヶ原の戦いに遅刻した家康の子の秀忠、その秀忠の子。ただし秀忠が女中お静に手をだし産ませた子が正之で武田家ゆかりの高遠藩主保科家に養子に入る。


秀忠の妻「お江与」は相当な猛女で将軍であろうと側室を許さない。いきおい秀忠は恐妻家となるが2人のあいだに竹千代(のちの3代将軍家光)と国松の2人の男の子をもうける。無理やりもうけさせられたのかもしれない。さぞこわかったろう。

家光が臨終に際しただひとり正之だけを枕元に呼び、「将軍家を頼む」と言い残して亡くなった。

家光は腹違いの弟のことを心から信頼していたことを示す。


この正之という人物は会津藩の始祖で「会津藩よりも将軍家に絶対の忠義をつくせ」という家訓を残す。藩が違うことをいいだしたら藩に従うなとまでいう。それがのちに会津藩に過酷な運命を強いることになるのだけど。

朱子学の熱烈な信奉者で仏教を否定している。迷信であり邪教であるという。神仏分離で弟弟子にあたる水戸光圀が領内のお寺の半分を廃寺にしてしまったのと同様、「儒教」と「純粋神道」の信徒であった正之は領民に火葬を禁止した。みずからも猪苗代の見弥山に神式にのっとり葬られたいと遺言を残す。


キリスト教国はまだまだ土葬が一般的で遺体は焼かない。「復活」のときにそなえ焼かない。火葬は遺体の損壊であるという。

南北戦争の兵士の遺体を本国に移送した、あるいは朝鮮戦争の戦死者を潜水艦で小倉に運んだ、そしてベトナム戦争を経験したアメリカでエンバーミング(遺体の腐敗防止)技術が進歩することになる。

仏教徒は火葬が一般的で釈迦が火葬されたことにもよる。


保科正之は有能な大名でありテクノクラートという実務家の面と信念をもった思想家という面をもっており、その思想がのちの明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈につながっている。

異母兄である家光から託された4代将軍家綱を老中役として支え、5代綱吉につなげた名君、「忠孝」と「武」を重んじる会津藩の藩風の基礎を作り、明暦の大火(1657)で江戸城天守閣が焼け落ちたさいには再建より被災民の救済を優先するよう進言したのも現代にも通じる合理的な思考をもち迷信や仏教さえも否定した正之であった。


会津藩家訓15箇条

「ひとつ、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国(諸藩)の例を以て自ら処るべからず。

若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」


革命家でありアジテーターだった吉田松陰が処刑前に獄中で書き残した遺書「留魂録」を思わせる。ここまでいうか。

どっちつかずで「二心殿」と揶揄された徳川慶喜を思いだす。


「ひとつ、婦人女子の言、一切聞くべからず」


当時、権力の座にまつわる姫様がらみの事件があったようだけど世界から袋叩きにあうのは間違いなし。

「一切」である。問答無用で聞き入れてはいかんという。あれこれこの家訓は明瞭簡潔にしてまわりくどさを排除している。

いずれにせよ興味をそそられる人物である。

「逆説の日本史」~水戸黄門と朱子学の謎~井沢元彦著より

今週末の衆議院選挙には「保科正之」に1票いれよう。

2021/10/26

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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