「現金書留の封筒」 2021/12/24

「お金で心配かけたことはなかったはずだよ。」

そう母はいっていた。両親は共働きだった。

別府の介護施設に入居している94歳になった母との意思疎通が難しくなってきたいま、さまざまな思い出が去来する。


妹が結婚し大分に嫁ぎ、父が亡くなり、兄が亡くなり、そして母が自宅を離れ、空き家となった無人の実家の冬はストーブをつけても寒い。

この小倉の新築の実家に住んだのは高校2年と3年の2年間ですぐに家を離れることになった、というより離れることを選んだ。


横浜の大学に入学しさいしょは学生課のあっせんで学校のあった横浜金沢八景の隣駅の横須賀市追浜の部屋を借りた。

母とともに新生活のための生活用品の買い物に出かけた。横須賀の百貨店「さいかや」で小さなカラーテレビをかってもらった。たしか10万円くらいした。

(「さいかや」はさきごろ百貨店としての長い歴史に幕を閉じた。)


下宿に遊びにきた一年上の先輩はカラーテレビをみるなり、「これを買うのにどれだけ親は苦労していると思う」とあきれた。


あのころの19歳の自分はじっさいまったくあきれたどうしようもないろくでなしだった。

決して豊かではなかったなかで母は毎月かかさず「現金書留」で仕送りをしてくれた。しっかり勉強しているものと思い込みながら。まさかいまの妻と遊びほうけているとは知らないまま。


それをあたりまえのように、当然のように届いた封筒を開封していた自分を、そのときあたりまえのようにカラーテレビを買ってもらった自分をいまでも悔いている。

私立大学(さいわい慶応は落ちた)にいかず公立大学でお金もかからずにすんだしなどと身勝手な理屈をつけ甘えを正当化しようとするあざとくあさましくいやらしい自分のことを。


コロナ禍が2年続くいまの学生たちの生活はさぞ大変だろう。ワンルームに入居していた東大生の女の子はアルバイトができず家賃が払えないからと富山の実家に帰ってしまった。東大生は豊かな家庭の子ばかりと思いこんでいたがそうではなかった。


その後しばらくはどうしようもないろくでなしのままだったけれど社会でもまれ、子供を育てていくなかで、ひとつひとつ過ちに気づきばかから目覚めていくなかで、少しはまっとうな社会人になったと思える。

その当時、いっこしか違わない先輩のような思いをもとうとしなかった、もちえなかった子供みたいなあさはかな自分をこころから愧じる。

その先輩は東京新聞の社会部の記者になった。まっとうな視線で人々の生活を見つめるいい記事を書いた。


母から送られてきた「現金書留の封筒」はその後の幾たびの引っ越しにも耐え、廃棄されることなく、46年間自分とともに新居についてきた。とても捨てられなかった。どうしても捨てることができなかった。


思うのだ。

この「現金書留の封筒」を平然と紙屑のように捨てることができるようになったらもう自分は人間として生きる資格はないと。


そして、まだ生きる資格はないままだけどそろそろ処分することにした。

それは「現金書留の封筒」を手にしなくてもそばに持っていなくても自分のこころに感謝の気持ちを刻み込むことができたと思えるようになったからだ。


母の期待には応えられなかったけれど、どんな思いで「現金書留」の宛先を書き、どんな気持ちを手紙に託し、暑い中寒い中、忙しいあいまに郵便局に通っていたかその母の姿を目を閉じて思いをめぐらすことができるようになったからだ。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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