170年前の下田  2024/6/9

首席通訳官のまなざし。

久里浜上陸 1854年3月8日

下田へ向かう前に

随行した画家ハイネが彩色リトグラフで製作.

幼いころは100年前なんて遠い遠い昔々の物語と思っていたがまもなく68歳を迎えるぼくらにとって、最近のことのように思えるようになってきた。たかだかひいおじいちゃんのころのことだもんね。

「朝から艦隊はてんやわんやの騒ぎであった。武器の手入れ、ボートの用意、機関の蒸気造り、隊員の身支度、など上陸に必要な準備が急がれ、いかなる事態にも対処し得る備えが整えられた。」

総員300名での上陸に戦闘に発展することも想定して、大砲も照準を合わせていたことだろう。

上陸は厚い歓迎を受け、後進の40人の軍楽隊による演奏も続く。


目的を果たし無事、帰船することになったとき、

「ある男が、ちょっとためらいながら、『あなた方が帰ると、すぐさま事なきを得たことを素直に喜んで、あのぎこちなさをゆるめてしまいましたよ。』と語っていた。

役人はほっとして、つい本音をもらしてしまう。

なぜ、ここには音楽がないのか、と聞くと、大変貧乏だから、との返事であった」


3月23日、下田にて。

「昨日の散歩には大変な群衆につきまとわれた。誰も健康そうで食はたりている様子だった。眼病が蔓延しており、疱瘡の癒えた痕を残している人もみられた。

かわいらしい子供はまれだったが、男女のうちでは、男の子がずっと人をひきつけるところがあった。顔立ちの良い少女もすこしばかりいて、これがかろうじて不器量な女の多い当地の人々の面目を保っていた。」

下田を散策中、あらためて当地の女の子たちと男の子を交互に見くらべじっと観察したが、かならずしも不器量ばかりではないことが確認できた。

昭和の時代といまとでは、日本人の顔もずいぶん変わってきたように思う。

孫の幼稚園の女の子たちもみなかわいらしい。

昭和の男の子はもっと目が細く角張った寅さんみたいのがたくさんあふれていた。

とにかく、乗組員たちはあちこちで好奇心旺盛な子供と婦人たちにつきまとわれた。

「500人、いやそれ以上の群衆が集まってきた。たしかにその半数は婦人と少女であって、美人も何人か混ざっていた。日本人の顔立ちは、このようにひとわたり数百の顔をながめていると、中国人の面立ちほどに愛想がよいとは感じられない。婦人の着物は中国人のに比べて、優雅であるとはいえず、野暮な、幅の広い帯は緩みがちで、着付けが崩れると、胸元がさらにはだけるのだ。この婦人たちのうち、幾人がまっとうな人たちであるかわからなかった。」

美人は250人にひとり?だらしなく見えるのは貧しさからくるものだろうが、手厳しい。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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