
池袋から各駅停車でひと駅目の「椎名町」に降りて、狭苦しい住宅街をしばらく歩く。
練馬での新年会までしばらく時間があって、どうしたもんかとあれこれ思いを巡らしていたとき、これだ!とトキワ荘が候補にあがった。
漫画界の頂点に君臨してきたこの巣窟?を訪れてなかったのが不思議なくらいだった。
このめんめんを見よ。
昭和21年1月に巨匠手塚治虫先生がデビューしてから次々と漫画家を志す人々がこのアパートに集まってきた。

このミュージアム設立にあたっては解体を惜しむさまざまな企業や有志からの協賛金が集まった。
四畳半一間、共用の炊事場・トイレとおよそ江戸時代の長屋を思わせる。
戦後の混乱期の庶民の暮らしはこんなもんだったのではなかろうか。

「おそ松くん」が少年サンデーに連載されたのが1962年4月から1969年まで。
56年生まれのぼくが小学生になったころに読んだと思われる。
転校前の、松江市内で引っ越しをする前のことだから小学1年生のころ、便箋にオールひらがなの鏡文字まじりの「はげましのお便り」を書いて赤塚不二夫せんせいに送ったのだ。
はたぼーやおでんを持っているチビ太の絵も添えたかもしれない。宛先はもちろん大人に書いてもらった。
すると、なんとある日赤塚先生からお礼のお手紙が届いた。
直筆のお手紙はなかったものの、なかにはいまでいうファンクラブの小冊子が入っていた。
山陰の小さな町の、ちびすけに東京の大人気まんがの先生からお手紙が届いたことは飛び上がらんばかりの出来事でいまでもその光景とともに石に刻まれている。
アシスタントが送ってくれたのだろうがぼくが赤塚先生とつながった気がした。
16号室をのぞき、先生にお礼を伝えた。
建物はあのときのまま伝えるをコンセプトにしているようで随所にこだわりがみられる。

出前のラーメンのどんぶりは当時のもので、たらい、洗濯板、包装紙にくるまれたカルピスなど。


いまでも健在で当時の味を復刻したラーメンもある。

この狭い部屋で連載物の構想を練り、呻吟しながらアイデアを絞り出す作業は、締め切り迫る出版社の矢の催促と相まって苦しみの連続だったろう。
ただし、先生たちは発売日を心待ちにしている日本中の子供たちとつながっていた。


この廊下から原画が出版社に託され、日本中の本屋さんに並んだ。

手塚先生は宇宙から派遣された地球外生命体だと思っている。
そうでないと、あの作品群の説明はつかない。
そしてその磁力に吸い寄せられて弟子たちが集まってきた。
近所の「肉の越後谷」の2階に虫プロがあった。
先生も地獄を見た時期がある。そのことを思うとやるせなくなる。

感謝をつげて、階段を下りる。

