70歳は「古来稀」どころかいまではあたりまえになった。あとどれほど齢を重ねることができるのだろうかわからない。ただ、憂いなく恨まれることなくこの世からそっとフェイドアウトしたい。
葬式不要、戒名、墓石、いろいろ不要。
6年前の家の建て替えのさい、息子名義で建築費の一部を35年の住宅ローンで組んだ。「住宅取得控除」で彼の税金をめいっぱい控除を受けたのち返済してしまう。残債はいつでも一括返済してしまえる状態ではある。
あとの憂いは突然ころっと、あるいはじわじわ余命なんちゃらになったとき、事務所の3人のスタッフがその家族ともども路頭に迷うことになってしまうこと。のみならずお客さんたちもおおいに困るのだ。だからぼく亡きあと、事務所を引き継いでくれる人をあらかじめセッティングしておいてソフトランディングをめざす。
来月、古希のタイミングで中学のときの同窓会が開催される。
50人くらいになるのだろうか。
どこの同窓会もそうだろうが、出席者はいまそこそこ元気でそれぞれなりに幸せに過ごしている人たちでとくにその傾向は女子で顕著だ。
参加したくても会費の工面もままならないひともいるだろう。家庭の事情でそれどころではない人もいよう。
ぼくらの中学には児童養護施設のから通う同級生もちらほらいた。
もともとは、八幡製鉄所の空襲で親たちを失った戦災孤児の受け入れをしたカトリック教会が母体だ。
いま、遠藤周作さんの「切支丹の里」を読んでいるところ。
小崎は貧しい弓矢師の息子で父親ともども京都で捕縛され長崎の西坂の刑場に向かう。
14歳のとき。
「私は私の処刑に関係した人々を少しも恨みませぬ。ただ一日も早く、太閤様をはじめ、日本人全部が切支丹になられることを望むものです。」(三木ポウロ)

そもそも同窓会とか、大勢が集まってわいわいするとかが嫌いで、還暦同窓会以外はこれまで不参加だった。飲み会は二人がいいし多くても4人まで。
さて、今回の古希の同窓会にこの施設出身者を呼んだ。
いまは違うようだけど当時は中学を卒業すると卒園して独り立ちしなくてはならない。
そいつは卒業後、大工の親方に引き取られた。
いい親方だったのかそうでなかったのかはわからない。
昭和徒弟制度のなかの当時のことゆえなんでもありの親方だったこと、その後職を転々していることからおよそ想像がつく。
魚屋のトロ箱を、昭和40年代の当時は木箱、洗い流す仕事をもらって暮らしたり、その後大阪に出てピアノの運搬、設置をやったり。
真夏の炎天下、魚の内臓の臭い、200キロからのピアノを天秤棒を担いで。
どんなにかつらかったろう、
ホームレスのようになって公園で寝泊まりをしたこともある。
彼はおばあちゃん子だった。楽しそうに話してくれる。
神さま、あいつが何をしたというのです?
教えてください。
生活が苦しくて、スナックで客に「飴、キャンディー」を売っているところを補導された。
よく、出自を恨み、世をはかなみ、人生を捨て、やけにならず、ぐれずにあらぬ方向へ走らなかったと思う。
なかには不遇をばねにして人生に立ち向かって地位を得る人もいるでしょう。
でも当時天涯孤独の15歳の少年にとってそのスタートはあまりに酷ではありませんか?
どうか答えてください。
今回、幹事に頼んで彼にも出席してくれるよう案内のはがきをだしてもらった。
忘れ去られた同級生。
施設の子たちは7、8人はいただろうか。
卒園後みな、連絡をとりあうこともなく、消息は全員不明とのこと。
55年ぶりに会う同窓生たち。あいつの目にどのように映るのだろう。
おそらくどんなひとともにこやかに接するすべも心得ている、と私は確信している。
もし、あいつのことを無視したり、差別したり、心無い言いかたをするやつがいたら許さない。
それがまた杞憂であることも私は確信している。
そんな中学校だったことを誇りに思う。