東京から八ヶ岳に足しげく通い詰めて信州の蕎麦に心酔していたおやじにとって、九州はうどん文化圏であり、蕎麦文化の不毛地帯であると映っていた。
事実、単身生活3年半、地元のおいしい蕎麦屋を紹介されても、おやじを満足させる店に出会ったこともなく、仕方ない、求めるほうが悪いと自分に言い聞かせていた。
この田川の「斜抗」に出会うまでは。
まず、東京目白にあった高橋名人の店で南アルプス北杜市に移転した人気店「翁(おきな)」の、喉越しと風味、そしてキレのいい(どこぞのビールみたいだが)お蕎麦に通じると感じた。
これが、正統派本格蕎麦である。
大げさではあるが、蕎麦打ちにはその道を極めようとする孤高の求道者の魂が必要である。修行者のもつ張りつめた緊張感。
粉に水を含ませるときの水の量をその日の湿度も加味し加減し、指先を立ててすばやくこね鉢に水を回す。毛糸くずのようにころころになった小さな塊を集めて早し最上川、空気を抜きながら円錐状に成型して、手のひらで押しつぶして分厚いピザの生地のようにする。そして、麺棒をあやつり縦に横にしながらのしていく。けっこう疲れる。均一な厚さの正方形、ないし長方形にのして四つ折りにする。
ここからは、打ち粉をさーっと振って蕎麦がくっつかないようにしながら、麺切り包丁でこれまた均一な幅にリズムよく切っていく。
切った後、包丁を右に寝かせて切り離していくのは刺身と同じ要領。
私のようなしろうとは一度に4人前がせいぜい。蕎麦をいただくときはあっという間だが、これだけの気合と作業が込められている蕎麦は1人前1,000円でも仕方ない、と思ったものだ。
一連の工程に共通して大切なのはすばやさ。ぼやぼやしていると乾燥してしまう。乾燥が追いかけてくる。ぼやぼやしない人でないと打てない。決まりはないが、途中お茶したりトイレも許されない。
お店に入ったときに漂う気配、そして殺気、余計なもの一切を排除した質素な空間。
そんな道場の空間には、テレビも、報知新聞も週刊ポストもいらない。申し訳ないが子供たちの楽しそうなはしゃぎ声も。
夫婦お二人で切りもりされているのだろうか。
美しく品のある奥さま(かどうかわからないが)の笑顔と「子供は入店お断り」の張り紙の持つ意味。
池袋の製粉業者「北東製粉」のそば打ち道場で修業まねごとおままごと経験のある私である。
ご主人はどこで修業されたか若いのに大したものだ。
えらそうなこと言っているが、おやじは「東京のソウルフード」ともいえる、立ち食い「富士そば」も大好きである。本格的でないのは当然だが、つい入ってしまう。北九州にもぜひ来てもらいたいが、北九には「資さんうどん」という、重鎮がおられ、地元で幅広く支持を得ている。
先日、うどんは博多のやわやわ麺の「因幡うどん」、「大福うどん」、「牧のうどん」のほうがおいしい、ごぼ天うどんなら、鞍手の「仁」がいちばんだ、とうかつにもグループラインに投稿したら、地元民からたちまち集団リンチを受け、簀巻きにされ洞海湾に投げ込まれてしまった。地元のソウルフードを敵に回すとどうなるか身にしみた。
福岡のうどんは、うどんほどやわらかくはなかった。
品川駅の京浜東北線のホームにある「常盤軒」の天ぷらそばも羽田に着いた帰り道におなかがすいてなくても入ってしまう。立ち食いゆえ決して上質のそば粉を使っているわけではないけれど、庶民の味から、頂点に立つこの「斜坑」まで、蕎麦はなんとも不思議な実に奥の深い食べ物である。
もし、こんな蕎麦が打てたなら私も店を出したい。
なんで、筑豊田川の(失礼)団地の一角で、お店を出しているのか不思議だった。
これまで九州の蕎麦がどうのこうの一括りに切り捨てていた自分を愧じた。
お蕎麦のセットには蕎麦雑炊のほか自家製の豆腐、さくさくの天ぷら、なめこ、紅白のかまぼこ、さらにデザートに自家製プリンとコーヒーがついて2,000円とうれしい限り。
2016.12.3
蕎麦雑炊
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