遠藤周作さんはただのすっとぼけたなおやっさんだと思っていた。カトリックのクリスチャンだことは知っていたが著作にも興味もわかず、ほったらかし。
それが、「海と毒薬」(1958年・九州大学医学部でのB29の捕虜の生体解剖事件)の映画化やスコセッシ監督制作の映画「沈黙」あたりから私の見る目がかわった。
私はイエスという人物がよくわからないでいた。そして「聖書」をなんども開いてみたがその先にある扉が見えなかった。いまでも彼の説く「愛」の本質はわかっちゃいない。少なくとも日本語には彼のいうところの「愛」を説明する言葉がないのかもしれない。「神とともにあって人々を大切にしたいと思う気持ち」のほうが近いかもしれない。
街ゆく人たちに「キリストは愛です」といくら説いても、「そうですか」で終わり。耳を傾ける人はいない。まして「悔い改めよ」と脅されたならばかかわりを持ちたくなくなる。
貧しく病める人たちとともにあったことはわかっても不治の病を治したりする「奇跡」や「復活」を素直に受け入れることができず懐疑的な私は思いを寄せつつもキリスト教徒ではない。そもそもキリスト教徒としての資格がない。よしんば許しを得て受け入れてもらえたとしても中世ならば異端の教徒として逆さ吊り、火あぶりにされる運命にある。最初から「ころんでいる」状態だ。
この著作は12人の弟子たちからみたイエス、イエスから見た12人の弟子、それぞれの目に映る姿をその視点、視座としている。
イエスに従ったこの弟子たちはもともと偉人でもなんでもなく、当時ローマ帝国の植民地となっていたユダヤを解放してくれる預言者としてイエスに期待していた普通の人々で、イエスを裏切るわ、逃げるわ、教えに懐疑的であり遠藤氏によれば「弱虫、卑怯者、駄目人間」だったという。
そのどうしようもなかった弱虫たちがなぜイエスの死後、人が変わったように目覚め、命を顧みず(ほとんどが処刑された)布教活動するようになったかがイエスの教えを理解するかぎであるとする指摘は的を得ていると感ずる。
聖書の文言はユダヤの厳しい戒律、律法、荒涼とした谷や湖、ほこりっぽく乾いた町や石造りの神殿を連想させる。
この著作はそんな景色に日本の湿気やもや、蒸気、そして木造の家並みを加えている。宗教学者の論争などに巻き込まれずに距離をおいて、イエスの永遠に問いかけの続く教えの扉をあけてくれている気がする。
西洋のキリスト教絵画を鑑賞するのには「聖書」の理解なくしてありえない。絵を見れば聖書のどの場面なのかすぐにわかる。そして思いを寄せることができるようになる。
この著作を読むにあたって、「芸術新潮」の絵画解説記事をまとめたこの本をあわせて読むとより臨場感にあふれ理解が深まることうけあいです。
妻とこの本のことを話題にした。
イエスはローマ帝国の支配を揺るがすユダヤの政治犯として、革命家として処刑されたことさえ知らなかった。社会科の教員免許を持っていてもこの程度であることをなじるつもりもない。世間一般おおかたそんなもんかもしれない。こころの持ちようは人それぞれで強要するものでもない。
クリスマスを祝うのはケーキを食べんがため、パーティーをするためではない。政治犯として処刑された弱くみすぼらしいイエスキリストの誕生を祝う日だ。子供たちは別として大の大人がはしゃいでいるのが幼稚でこっけいに映る。楽しそうだからそれでもいいのかもしれないが。
2019.3.24