構想から7カ月、ようやくそれが建築コンピューターグラフィックとなって仮想空間に現れた。
外観は白と黒のモノトーンを基調とし、シンプルに仕上げる。
窓枠をパンダの目のようにまん丸にすればパンダっぽくなって、散歩にやってくる幼稚園児たちが歓声を上げる家になる。
「シルバニアファミリー」のようなうさちゃんハウスもいい。「ホーンテッドマンション」風のお化け屋敷もいい。
でも、結局はありきたりのふつーにみかける家になってしまう。
30年前のバブルのころは奇をてらった個性的で遊び心のある建物がたくさん建てられた。役所でさえそうであった。「気をてらった個性的な」建物は当然そのためにスペースをぜいたくに使い無駄が多いことを意味する。
その奇をてらった部分の大半は飽きられ、「もったいない」「無駄」と後ろ指さされ、罪のない建物たちはあわれ不遇をかこつことになる。
その点では「シルバニアンハタボーハウス」は建築業者に「部屋を産めよ増やせよ」増進政策の無理難題を突き付け、恫喝し、忖度を強要したものだから、機能重視の遊び心と無縁のものとなった。
「機能美」というものがある。機能を極限まで追求したものの持つ美しさ。
私はそれを「第二次大戦の戦闘機」などに見る。機体の空気抵抗を減らすためにリベットまで平らにする、翼を切り詰め、エンジンを覆うカウリングを絞る。戦争中の開発にあって「遊び」という無駄は一切許されず開発担当者たちは身を削って機体を削る。速度、武装、航続距離、旋回性能、視界、操縦性、生産性を究極まで追求する。
するとそれが結果的に航空機の場合(特に日本機)流麗で洗練されたフォルムとなって結晶するから不思議だ。
日本軍機であれば、「零式三座水偵」、「銀河」、「飛燕」、「震電」など、連合国のであれば「スピットファイア」や「P51マスタング」など。
日本機のばあい、防弾性能を軽視し搭乗員の命を守ることまで省いてしまう。
しかしこの戦時中に蓄積された技術と開発者魂がいまの日本を支える自動車産業の隆盛につながっているのは間違いのない事実だ。
ドイツ機はどうしたものか性能は優秀だがデザインは武骨で建設現場の建機のような色気のないものが多い。国民性だろうか。
「機能美」を持つためにはデザイナーはいらない。お化粧、つまり見てくれのごまかしは不要。
女性にとっての「機能美」の追求は「女として身も心も美しくありたい」そんな思いをつきつめて暮らすことであろう。これは女性に限ったことではない。
町を歩くともうきれいになろうとすることを謙虚さやはじらいなどとともに永遠に放棄したようおばさんをたくさん見かける。それはひと目でわかる。しかも年々増加している気がする。
同じく定年過ぎて車中泊だなんだにうつつをぬかすあほばかおやじも見かける。もっとやらなければならないことがあるだろうに、こうしたはぐれ雲ならず者おやじも年々増殖している気がする。
定年後昼間のTVをたまに見るようになったが、その番組のほとんどが痩身法やデブ隠しであったり、シミしわがどうしたこうしたの女性のお悩みばっかだ。その変身の手法はいかにらくに、お手軽に、その場しのぎ、とりあえずが基本。締める、もちあげるのSM方式の景品表示法違反の乙女心を利用したごまかしにまみれたやりかたもあって、男性を欺くのみならず女性をばかにしている気もする。もちあげることもできない人もいるのだ。
先日、「日高屋」という庶民派の中華料理店に入って「野菜たっぷりたんめん」を注文し、出てくるのを待っているとき向かいのテーブルに座った30代のおねえさん?が店員に「野菜たっぷりたんめん」の大盛りを小声ではあったが注文するのが耳に入った。
女性が「大盛り」を注文するというのはいままで見かけなかったが、さいきん平然と注文している女性を見かけるようになった。
いままでは大盛りを注文したくても人前では恥ずかしくて注文できなかったのではと思う。その恥じらいのたがが外れてきているのではと感じた。
その女性はふくよかでその体躯を維持するために体が「大盛り」を要求するのだろう。でも、それでは現状維持だよね。
もう「やせる」やる気を喪失したのだろうがか。余計なお世話かもしれない。
引っ越しにはショーケースに飾られている数十機の機能美あふれるダイキャストモデルをアート引越センターのように丁寧に細心の注意を払い荷造りして運び、残りはお安くしときまっせ「サカイ引越センター」の2トントラックロングに積めるだけ積む「いてまえ」引っ越しにすることにした。
仮住まいへのお引越し6月26日に決定!
2019.5.7