東京シティボランティアガイド足立編

西日暮里から無人走行の都営舎人ライナーに乗って、江戸時代の遺構を求めて足立区を訪ねる。「見沼代親水公園駅」に集合した会員は4班に分かれて40人ほど。

関東大震災により浅草から竹ノ塚に移転した「常福寺」には林家三平師匠が眠っている。

関係者が供えたみずみずしい墓前の花々が故人の遺徳を伝える。


江戸の人口を賄うための農業用用水路の整備と治水、そして江戸の防衛のための江戸の北部の開発をしのぶことが狙いではあったが、


三遊亭円楽師匠、林家三平師匠、そして安藤広重(歌川広重)の墓参りが興味深いコースとなった。


今日のガイドはピンチヒッターの山形さんを重鎮の渡邊さんがサポートするという、ダブルガイドとなった。


江戸に入府した徳川家康ではあったけれど、戦国時代からの地元の武将たちは脅威であると同時に、新田開発もまた重要な課題であった、という歴史への興味もあったが、


今回参加しようと思い立ったのは、じつはおやじが安藤広重の東海道五十三次や江戸名所百景などのファンで、彼にまつわるお話が聞けるのではないか、という興味からだった。

いちばんの聴きどころはこんな解説。

広重の描いた江戸の洲崎、鷲の鳥瞰図の解説で、講談社の「名所江戸百景」にはこんな解説がそえられている。

作成されたのは安政2年10月の安政の大地震1年半後の安政4年(1857年・おやじ生誕101年)の5月である。

5月の制作であることは、左下の版元である魚屋栄吉(さかなやえいきち)の上の刻印で知ることができる。旧暦の5月は新暦の5月下旬から7月上旬にあたる。

場所は現在の地下鉄有楽町線木場駅の南。右下は江戸湾。

広重は5月から7月にかけて江戸の雪景色を描いたことになる。


空から眺めていたこの鷲が見つめているのは何か?

流れていく桶。桶は桶でも「棺桶

震度6弱以上死者1万人とされる安政の大地震は震源地である下町地区の隅田川東岸の深川や浅草などで特に甚大な被害をもたらし、屋敷家屋の倒壊に加え大火が発生し江戸は大混乱となった。

このような地獄絵図を描いた絵師たちは次々と捕らえられたという。むろん、江戸の混乱が全国に伝わりそれに乗じた政治的な混乱や戦乱を防ぐためである。


5月の江戸を雪景色に描いたのは廃墟となった下町を雪で覆い隠したかったのではないか、流れる棺桶は死者へのとむらいではないのか、と渡邊さんと中村女史は指摘する。

「調べていったらそういきついた」という。


そして背後にそびえるのは茨木の筑波山で「鷲」を象徴とする名峰である。そしてここ「洲崎」は解説文に「ついには塵芥で埋立てられた」とあるが、ごみだけではなく地震によるがれきを埋めたのではないか。

地震や津波、大火ででた大量のがれきのほか、死者たちも埋葬しきれずここ洲崎に運ばれて遺棄放置されたのではないか、というのが私の私的見解である。当時、地方はともかく過密都市江戸の墓地や埋葬事情から地震被災者がねんごろに埋葬されたとはとてもいいがたい。平時であっても死体は土葬されることもなく寺に棺桶ごと放置され、朽ちるのを待つのみであったとの資料もある。

つまり、この絵図は「大地震により被害を受けた江戸の町と犠牲者のための鎮魂画」といえるのではないか。広重の江戸のまちの心象風景ではないのか。


広重は2年後の安政5年9月に62歳で亡くなる。

広重が描く江戸の風景の中には(東海道五十三次ももちろんそうであるが)必ずつつましく、ほのぼのとした、そしてたくましくささやかなしあわせの中にけなげに生きる人々が描かれている。絵葉書の景色ではなく人々の暮らしを見つめるまなざしが刷り込まれている。

広重ー名所江戸百景ーTokyo 」の巻頭「ー広重の生きた江戸ー」ではこう興味深く綴られている。

 

「広重の生きた江戸は、必ずしも風光明媚な土地ではなく、夏は暑く冬は寒いうえ、平野の砂塵を強風が巻き上げ、生活するには苦しいことも多かったといわれている。しかしながら広重の江戸のなんと美しいことであろうか。逆境を感じるどころか、風景のなかに描かれた人々を見ていると、そこにささやかな楽しみやよろこびがあり、それが作品の風情となる。」(5P)

 

私たち下町グループのガイドたちは「東京だよおっかさん」の観光バスの名所ガイドなんかではないことを改めて知ることになった1月例会であった。

2020/1/12

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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