うれしくてわくわくするわけでもなく、
不安におののくわけでもなく、
とぼとぼと高齢者の大群が場違いな高層ビルのオフィス街の地下鉄の出口から湧いてでてくる。
お伊勢参りのようでもあり、
巣鴨のとげぬき地蔵商店街のようでもあり、
65才以上の高齢者が政府によって収容所のような建物に集められた。
そして、司令部で「戦える体なのか」身体の状態を申告し、年下の下士官によって赤や青や黄色のファイルをもたされグループ分けが行われる。
世界的なコロナワクチン争奪戦に敗れた日本。あるものは南太平洋に、またあるものはソ満国境へ振り分けられる。
そして7人程度集まると小隊となって目的地まで力なく行進する。
いちおう志願兵であった。
高齢者ではあるが国家の危機に際し大手町の迷路のような地下要塞をくぐりぬけ司令部までやってきた。
よくぞ、この激戦地を踏破した。
あるものは道を誤り日比谷方面に、またあるものはお茶の水方面に向かい、こと切れるものまででた。
銀座3丁目に向かったばさまたちの一団は迷ったのをいいことに三越で買い物する非国民まででるしまつ。
ここに到達するまでに少なくない落伍者がでている。
戦意も高かっただけにさぞ無念であったろう。
案内もなく、支援も、補給もなく、情報もないまま複雑に掘られた地下壕から顔を出して見慣れぬ景色のなか自分の位置を確認しながらさまよった。
「バターン死の行進」のフィリピンのアメリカ軍捕虜のようでもあった。
会場はさながらAmazonの配送センターのようであった。
接触を避けるよう無駄なく計算された進路。司令部に一歩足を踏み入れたとたんベルトコンベアーにのせられたようにシステマチックに方面別に振り分けられ、女性小隊長の号令一下いっせいによろけながら行進をはじめる。
みな、お通夜のように受付から記帳、接種、待機所をでるまで終始無表情、そして無言である。所持品はチェックを受け、外部との通信も禁止されている。
このまま焼き場に向かうかのようなおごそかな心境がそこに見て取れる。
お通夜と違うのは「香典」のかわりに「接種券」を手にしていることである。「香典返し」のかわりに「2回目の接種予約券」をもたされていることである。袈裟をきた「お坊さん」のかわりに制服姿の「自衛隊員」が仕切っていることである。
じじばばばかりである。自分もとうとうじじいになってしまったと実感した。この景色がどうあがこうとこのくくりにくくられてしまったとレジスタンスだった自分にとどめをさした。
未知のワクチンを筋肉に注射した。体のなかでただならぬ上へ下への大騒ぎが起きているはずだ。
まず、あとのない高齢者から試してみて、安全性に問題がないと証明されてから若者たちに打つ。
筋肉痛が翌日まで続いた。
もしや、すでに感染していて無症状だっただけではないのだろうか。
*実際の当日の地下鉄の駅からの会場までの案内体制はかなり整っていました。