風光明媚な国際観光都市だとかで松江の観光土産にと名所絵葉書などが古くから売られていたらしい。
祖父がはじめた食品問屋は戦後しばらくして個人商店から株式会社へと組織変更している。自宅と店は松江駅のそばにあったけれど、問屋ゆえまとまった広さの倉庫と駐車場のための敷地が必要だった。
「伊勢宮」という地名の松江の歌舞伎町といってもいい歓楽街の一角を倉庫にした。
朝日町の自宅を処分して東朝日町のお屋敷に引っ越すまでの幼い時期の数年間を私はそこで過ごした。
そこは松江藩から続く「遊郭」のあった地域で、多くの遊女たちがいたという。
悪所ゆえお城のまわりに遊郭を置くわけにもいかず、当時は中洲だったこの地に定めたのだろう。
博多の中洲同様、中洲は周囲から隔離された盛り場となる運命にある。
ぼくちゃんはこれでも「遊郭」のあった大人の遊び場で育ったのである。
彼女たちの涙もつらい思いも、男と女のことも知らずにこのあたりをわけもわからずうろついていた。
遊女たちは毎日残した家族を思い、家族は売ってしまった娘を不憫に思い手を合わせて涙にくれる。
そして今回この資料にたどりついた。本来なら地元の今井書店か古本屋の地域史コーナーでさがすところ、いまはネットで探す時代になった。
遊郭にはたいてい「黒門」とか「大門」という大きな門がある。浅草吉原もそう。「大門」は「おおもん」と呼ぶ。
「黒門の落成式ー忍ぶ恋路」
昭和の初期であろうか。
もともとあった「和田美」遊郭が大火のため焼失し、川を挟んで対岸に「新地遊郭伊勢宮」として移転した、とある。
大正3年に「新大橋」を架け、その後この川を埋立て、昭和8年に新大橋に続く通りとなったことも初めて知った。
江戸時代、大橋川に架かる橋は「大橋」だけだった。越前加賀金沢同様お城の防衛のためにお城の反対側となる橋の南側「南詰め」にありったけの寺院を配置した。これも防衛のためと思われる。
攻め込まれたとき、お寺に武士を集め、いよいよというときには橋を落とす覚悟でいたのではないか。
遊郭として昭和2年に建てられた建物はいまでもそのまま旅館として、日本料理店として営業している。
貧しさなどの家庭の事情で置屋に売られていった女の子たち。客を取らざるをえなかった悲しい歴史のひとつ。
ぼっくんはなんと環境のいいところで育ったのだろう。
右奥に米江旅館。
ここは川だった。新大橋商店街が続く。
大学生の時、出雲高校出身の女の子とつきあっていて、その子のうちにお邪魔したとき、ご家族から「松江のどのあたりですか?」と尋ねられて、「伊勢宮と東朝日町です」と答えた。
すると、その人から「伊勢宮って、遊郭の?」とどんびきされたことを思い出す。一族もろとも教師一家だったから無理もない。顔にうちの子はこんな青年とつきあってだいじょうぶだろうかという不安の影がさすのがわかった。
そのぶん、料亭や寿司屋、出雲そば屋、仕出し屋なんかに囲まれておいしくぜいたくに育ててもらったと思う。
それにしてはぼくは無粋で、「お花」や「お持ち帰り」とかとは縁がない。
小学校3年生で転校して遊郭に縁がなくなかったかと思いきや、転校先の北九州には日本一の石炭積出港だった「若松」、対岸の工場地帯の「戸畑」、炭鉱、製鉄所がらみの「八幡折尾」、横浜、神戸とならぶ港町だった「門司」、そして城下町「小倉」には獣のように飢えた男たちがうようよいてじつは近代の遊郭、つまりのちの赤線、青線があちこちにあるまちだった。
若松の旧土井町、戸畑のJR駅から若戸渡船にのびる道の両側、そういえばそれらしき建物をわずかにみかけることがある。若松に至っては若松小学校の手前までほぼ町の中心部全域がなにかしらあやしい地帯だったようだ。
2021/7/29