日本映画の絶頂期に生まれ、その衰退とともに成長していったぼくらの世代。
街が子供や工員さんたちであふれていたあのころ。
中学生の時(1年か2年)に同級生だった宮本くんに誘われたはじめての映画独立行動で黒崎井筒屋百貨店のうらっかわにあった映画館に入った。だからよく覚えているといいつつ2本立てのもう一本のタイトルは忘れた。もうこっぱずかしくて親に連れられ怪獣映画なんて見ることもない。
親にはないしょで暗い小屋にはいっていくあのわくわく感、親たちとは別行動になっていくあの解放感と高揚感。テレビでは放映されないのぞいてはいけない秘密の花園のような禁断の映画もあって、あのうしろめたいような背徳感がたまらなかった。
思えばおとこのこにとって成長とは親からの独立と解放のことだ。あらゆる干渉と束縛とおせっかいからの解放だ。
自由な新しい未知の世界へ踏み出すことだ。
なんかイギリスから独立したアメリカのようでもあり、
フランスから独立したベトナムや、
親ガチャロシアの呪縛からのがれようとするウクライナのようでもある。
当時父が集めていた太平洋戦史全集5巻ものをすでに読了しており、マリアナ沖海戦の惨敗、ペリリュー島の玉砕などに涙するなど戦記オタクの萌芽がみられたあのころ。
太平洋戦争だけじゃなくて西部戦線の連合軍とナチスのエルベ川での橋をめぐる戦いも見ておこうとなった。
おりしも近くの芦屋の海岸に戦艦「長門」と空母「赤城」の実物大セットがつくられ「トラトラトラ」(1970年公開)の撮影(1963年)が行われていたころ。(撮影をめぐり黒澤明とアメリカの20世紀フォックスが対立し黒澤は退任する)
おなじように「すでに」宮本くんはませて大人びて見た目もやさぐれてニヒルなかんじだった。成長著しい女子には負けるが児童から少年に少年から大人に変化していく一歩先を行く映画オタクだった。教科書より映画雑誌を好んで読んでいた。
当時の映画館は狭くぎゅうぎゅう詰め重視の設計思想でつくられており空調もおろそかで酸欠になりそうなうえにトイレはトイレでなくしょんべんくさい便所だったが、あの「薄暗い小屋に入っていく」スリルはたまらなかった。
もっとも、その後は優等生を装いつつ中学生のくせに映画館より黒崎のパチンコ「丸玉」(先日惜しまれつつ閉店解体された)やスマートボールにはまるのだけど。おおらかな街だった。打ち止めにしたり出玉によっては補導されていたはずだ。
「消えた映画館の記憶」というサイトがある。「閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能」とある。
その消えた映画館はなんという映画館だったか知りたくなった。
どこのどなたか知らないがなんともおつかれさまのサイトだ。
北九州市の映画館 – 消えた映画館の記憶 (memo.wiki)
北九州にはいまのコンビニなみに大小おびただしい数の映画館が乱立していたことがわかる。
おもえばぼくが生まれたのは松江の繁華街のかつて病院だった跡地の映画館をそのまま倉庫兼自宅としていた天井の高い家だった。
スワン座/松江スワン座/松江第二中央劇場
所在地 : 島根県松江市伊勢宮町 番地も同じ。ここのようだ。
そして八幡に引っ越してきて両親が働いていた会社があったのはこれまた映画館が閉館してそのままだったのを改装した建物だった。観客席だったところが倉庫にむいているためそのまま倉庫兼事務所としていた。
ここだろうか。「大字三越」がどこだかわからず。近くに「夜越」という室町時代の由緒正しい地名があったが。
「大丸映劇
所在地 : 福岡県八幡市本城町大字三越(1960年)
開館年 : 1955年以後1960年以前」
そんなわけでぼくの生い立ちはなにかしら映画館とご縁がある。
繁華街だった黒崎や折尾だけでなくやがて消えゆく運命であるとはいえさいはての地の「本城」にも映画館があったほど映画需要があったということだ。