江戸時代から続く明治期の東京の貧民街のルポルタージュ。
「社会実情データ因縁」のサイトによると
図録▽明治期東京の細民分布と三大貧民窟 (sakura.ne.jp)
四谷で3年間あちこち仕事で歩きまわったけれど、この界隈は足を踏み入れたことがなかった。
下町の路地が続く訪ねていく理由のないエリアでもあった。
東京にあった4(3)つの貧民街のひとつ「四谷鮫ヶ橋」だった。
「鮫ヶ橋にては谷町二丁目に細民最も多きが如し。家賃39銭の家屋を見るが如きは、東京市中恐らくは谷町二丁目を除きて他になからん。住民は日稼人足、および人力車夫最も多し。…万年町にては二丁目醜穢(しゅうわい)甚だしく、稼業は人足・日傭取・人力車夫に次いで屑拾すこぶる多し。むしろ万年町の特色なりと言うを得べきか。(新網は)もとより日稼人足・車夫・車力多しといえども、あたかも万年町に屑拾多きが如く、新網は四谷天竜寺門前(現新宿四丁目-引用者)と同じく、かっぽれ・ちょぼくれ・大道軽業・辻三味線等の芸人多きは特色なるべし。(中略)戸数多き上より言えば、鮫ヶ橋は各貧民窟第一に位し、新網は表面に媚を湛えて傍らに向いてぺろりと舌を出す輩多く、万年町の住民は油断して居れば庭のものをさらえゆく心配あり」(p.29~30)。
JR四ツ谷駅そばの迎賓館、学習院初等科などに隣接している地域。
四谷から信濃町の公明党本部に至る一帯。
たい焼きの行列店「若葉」のあたりもそうだったか。お土産のかいものついでにもうひといき赤坂寄りに下ればこのあたりにいけたのに悔やまれる。
貧民は低地(底地)の川沿いに住んでいた。
「雨日は細民の苦しむものなりというといえども、なかんずく生活に影響を受くるは日稼人足と共に芸人の仲間なるべし。二、三日雨天の続くことあれば、辻三味線は三味線を、阿保陀羅読みは木魚を質入し、今まで前に据え居たりし膳までそのまま質屋に持ち行き、二、三日にして家は空虚となること一と月幾回もあり。雨ふる日、新網を往来せば、かれらは平常大道に滑稽を演じ、浮世を三分五厘とわいわい騒ぎ居るにもかかわらず、悄然と火の気なき火鉢を囲みて無言に空打ち眺めつつあるを見ること多し。貧は淋しき者なり。しかれども外観より見て雨天に芸人の打ち悄るるほど、同情を惹くものはあらじ」(p.46~47)。
日雇労働者や大道芸人の貧民たちをあたたかいまなざしで書き記している。
「最暗黒の東京」サイト
三ノ輪、日暮里、
「100年前の貧民窟を行く」より
いろんなサイトがあるなぁ。
そういえばこないだ「夢の島」のなりたちの番組を見た。
ドキュメント「激変日本が変わった日」
「羽田飛行場」が都心から遠いため飛行場をつくる計画があった。
そして戦後、都民の海辺のレジャーランド、海水浴場がオープンした。
もとはといえば「夢の島」だったのだ。
ゴミ島なのに「夢の島」なんてふざけた名前つけやがってと思っていた。
それが、住民の反対運動もあって焼却処分場の建設も進まない中人口の増加にともない爆発的に増えるごみの処理がおいつかなくなった。
東京オリンピックのころ、とうとう行き場を失った生ごみを夢の島に運び野ざらしにした。
そこに蠅が大発生し江東区の住民はその被害に悩まされる。
30分もしないうちに魚屋のハエトリガミが真っ黒になった。
小学校の給食もこのありさま。
ぼくの小学生の頃も近くにあった皇后崎のごみ処理場は野ざらしでハエが多かったからわかる。
夢の島は夏には赤く、冬には黄色く見えた、という。スイカとみかんの生ごみだった。
そこで都知事だった東さんは消防、自衛隊による夢の島「生ごみ焼き払い」焦土作戦を敢行する。
重油を消防車のホースで生ごみの山に撒いて火を放った。
(廃車にするまえの消防車を利用した)
ごみとの闘いの島だった。
硫黄島の闘いを連想させる。