ペリーが幕府に開国を迫り、大砲で脅すために来航する前から隠岐には外国船がうようよやってきていた。
そんななか、領主の徳川一門の松江藩は隠岐への異国船の来航に無為無策であった。そして、それに業を煮やした若い庄屋たちを中心とする島民は島中の有力者と合議の上松江藩の役人を島から追放することにする。
そのさい、庄屋や島民は「農民三千人と藩の役所をとりかこみ、退陣を要求。藩役人を殺すことなく、米俵二俵と清酒2斗を餞別として贈り、道義と礼節をつくして本土に送り、、」(「島燃ゆ」)とある。
ヒステリックになって一揆のような暴動を起こしたわけではない。
その追放までのプロセスが冷静かつ民主的であって、この事件と時を同じくして生まれたフランス革命時のパリコミューン(自治政府)を彷彿とさせる当時の島民の民度の高さがうかがえる。さかのぼれば後鳥羽上皇と後醍醐天皇をお守りした尊王の風土が背景にあろう。
そして、松江藩の返答は軍艦の派遣と島民の虐殺だった。松江に生まれたものとしてこの出来事は忘れることのできない松江の歴史の汚点である。
著者は出雲の人。
著者は金子みすゞ、太宰治などの研究、そしてなにより「赤毛のアン」シリーズの全巻翻訳で知られる。