ついに、手にしてしまった。いつも気になりながらも素通りしていた。
後味が悪そうだったからだ。
史上最強の柔道家でありながらプロレスでの木村はタッグを組んだ力道山の引き立て役であったことに不満を募らせていた。
そして、ついに力道山と決着をつける日が来る。
戦後からまだ9年しかたっていない1954年12月22日蔵前国技館。
当時興行を仕切るのは大手を振って歩いていたやくざであって、この一試合目は双方「引き分け」にすることで話はついていた。
もっといえば、「私たちは話し合いをし、はじめの試合は引き分けにし、さらにもう一度引き分けを繰り返し、次に力道山が勝ち、そしてこちらが勝つ、ということで合意していたのです。」(木村が晩年に語った)
シナリオ(プロレス界の隠語で「ブック」)に沿って対戦と勝敗が組まれ、負けてもらうことを前提に金で呼んだ外国人レスラーをめったうちにする。アメリカにこてんぱんにやっつけられた日本国民は力道山たちの逆襲に熱狂する。
日本中が注視する中で行われた世紀の試合(TV視聴率は100%。なぜなら当時TV局はNHKと日本テレビしかなくどちらもこの試合を放映していた)ではたまたま?木村の蹴りが力道山の急所にあたった。それにぶちぎれた力道山が顔面蒼白になって張り手の嵐、ついには木村の顔面を蹴り上げ流血、ドクターストップでKOする。
なんとも凄惨で目を覆いたくなるほどの後味の悪い試合となった。蹴った瞬間からでショーではない、娯楽ではない試合になった。プロレスラー毎日本気で闘ったら、けが人続出で興業が成り立たない。「100回の腕立て伏せより1回の打ち合わせ」が大事なのだ。勝ち負けの貸し借りをしながら。
そしてこの試合から9年後の12月力道山は亡くなる。ぼくが8才のとき。
祖父の会社の住み込み社員の「周谷」さんという若い衆が「力道山が暴力団に刺された」と血相を変えてやってきて騒いでいた姿を覚えている。当然木村はリベンジマッチをもちかけるが力道山は一方的に諸方に手を回しはねのける。
「赤坂のキャバレーは怖いとこだ」とも思った。
「黒崎」の三角公園にあった3000円ぽっきりのアルサロ「日の丸」くらいにしとこうと思った。
その後麻布や六本木、その赤坂で仕事をすることになるとは思わなかった。その筋の人を相手にすることもあった。こっちとしても筋を通さなくてはならないからだ。
「千葉の砂浜に(債務者の)頭だけ出して埋めた」といっていた。埋めておいて売掛金が入金されると取り上げた通帳と印鑑で即座におろしていた。
暴力団に刺されたら、いったん家に帰らずにすぐに病院にいったほうがいい、とも思った。
木村は「力道山は俺が呪い殺した」といっていた(猪瀬直樹による取材による)
木村は170cm、力道山も176cm、だが体重は173cmのおいらにくらべ力道山は2倍弱、木村は全盛期で85㌔。
しかも多くが虚弱体質かつ内臓脂肪のおいらとは違い全身鍛えぬかれた筋肉。
全盛期の木村は「ゴリラそっくりだった」というところも「まつじゅんに似ていた」(「いる」ではない)ぼくとは違う。
拓殖大学は国士舘とならび恐れられた。ブラックエンペラーたちは国士舘のことを「しかん」と呼ぶ。「しかん」は警察官の予備校のようになっていて卒業生の多くが警察官となってどろぼうを投げ飛ばしている(はずだ)。
日本柔道と拓大柔道部はこの試合を忘れることはない。
「木村は負けたわけではない」と。
「鬼の牛島辰熊」
拓大柔道部師範(九段)の牛島は熊本鎮西中学で木村をスカウトする。
石原莞爾と親交があって、東条英機の暗殺計画に加わる。
凄みのある男たちがごろごろいた昭和。
表札にはこの「辰熊」の名がいい。