母校を訪ねて 2023/12/13

卒業して45年。いやはや時は流れて過ぎていった。

多くは無為に、だらしなく、特筆すべきこと、なきぞ悲しきと。

基本的にあのころをなつかしんだり、しんみりしたりするのがいやなタイプなのだけど、65歳を過ぎて「じいじ」と呼ばれるのに違和感がなくなったころから「懐メロ」なんかが気になりだした。

友人の孤独死を受けて、今日「しのぶ会」をやることになった。


池袋の東宝シアターで「ゴジラ」の新作を観てからと思ってはいたものの、ビミョーに上映時間が合わず、2時間の待ち時間をどうするべと思いついたのが母校探訪で、卒業後2度目、15年くらいぶりになるかな。

京浜急行の「金沢八景」が最寄り駅で、駅周辺は再開発で大きくかわっているだろうと覚悟してやってはきたが、今日の会場の武蔵小杉ほどの変貌ぶりはなく駅周辺の土台はしっかり維持しつつ、増改築とリノベーションをすませたくらいのかわりようだった。

ただ、駅舎は高架になってそこから階段で大学に向かう道と直結して、途中の古民家も修復され保存されている。

そして、校門の前の京浜急行の踏切と車両基地はそのままの姿だった。

赤い電車、と親しまれている京浜急行は珍しく新幹線と同じ「広軌」でどっしりしている。

あらためてヨコハマは坂だらけ、山だらけのデフォルトが急斜面の町で埋め立て地を除き東京のような平地などほとんどない。(正確には江戸時代以前の江戸は高台と湿地帯があっただけ)その間を縫うように走る京浜急行の線路はカーブの連続で、しかも急カーブであろうとすんごいスピードで走り抜ける。

東京のたいていの電車は吊革につかまらなくてもさほど困らないけど、京急では無理。


日本海側で育ったぼくちゃんがはじめてみた景色でまず驚いたのが、この「雲ひとつない青空」で、冬場など延々とこの青空がこれでもかと続く。

「気まぐれで陰険で陰湿な」日本海側の冬空とは大違い。

だからこそ陰険なぼくは面食らった。

そこに住む人々も「何を考えているのかわからん」感じではなく、明るくあっけらかんとしてさっぱりしている印象を受けた。

まっすぐ伸びるメインストリート?。左右に体育館。

大学祭の実行委員をしているとき、太田裕美とダ・カーポを呼んだ。ダ・カーポはともかく結婚するってほんとうだったからどうでもよかったが、生の裕美はかわゆすぎてもう昇天してしまいそうになった。

ぼくと同様?、恋人を残し、東へと向かう列車に乗って旅立つぼくがごまんといた時代だった。


卒業後に何度も教務課がでてくる夢をみたことがあって、

「単位が足りなくて卒業ができない」というシーンだった。

2年までにあらかた単位はとってしまっていたが、出席不足で4年時に1科目の必須単位がとれなかった、というものだった。就職も決まっているしなんとかならんか、と直談判しているおそろしか場面。

悪夢の教務課の入り口を足早に避けるように通り過ぎる。


このキャンパスはもともと日本海軍の施設の跡地で、山に面したところは重火器の発射試験場だった。

45年前にはまだ防空壕がそのまま残っていて、サークルの部室はレンガ造りの兵舎だった。

「海軍空技廠」という航空機の開発拠点がおかれ、名機「銀河」も設計され戦後新幹線にその技術が継承された。(陸軍は立川の「陸軍航空廠」)

軍の施設跡地の最南端にあたる。


食堂はそのまま。

肉なしカレーとラーメンとかしかなかったけど、貧乏学生にはありがたかった。

3時だから閑散としている。

それが、いまでは、

カーテンをめくって撮影してみる。

ともかく「500円の壁」を強く意識しているメニュー。

信じてもらえないかもしれないが、在学中の授業料は年間「1万5千円」で、5千円ずつ三回に分けて納付するというものだった。

だからこそ、裕福でない家庭の子も多く、私学、それもぼくみたいにあわせて慶応も受験するのは多くはなかった。


廃屋のような文科系サークルの部室棟。年末のこの時期は学生はもういない。

講義が終わると後輩たちが駅に向かって歩き出す。

ろくすっぽべんきょーしないでほっつき歩いていたぼくのようにはなるなよ。

ほんものの、いい恋をしろよ。

文理学部と違って商学部には女子学生はわずかしかいなかったが、学部を超えていろんな女子といろんな話をしていたあの頃。

なつかしむのではなく、いま彼女たちの前に立ったときに、彼女たちからあれからの45年があなたを大人にしてくれんだね、といってくれる姿を想像しながら。

これから、久しぶりに会う。

このキャンパスでやせっぽちではあったけれどその後の人生の骨格や枠組みがつくられた、と思っている。


別キャンパスの医学部の連中はそれもそのはずとにかく優秀で(定員が50人くらいだった)、映画などにも造詣が深かった深瀬はどうしているだろう。


このトンネルも戦前からのものだろう。

抜けると海側で正統派の安酒場があって未成年だなんだおかまいなくホッピーだの梅割りをかっくらった。いまはもう再開発でフェイドアウトしていた。


青天井だった金沢八景の駅のロータリーのバス停も変わっていた。

鎌倉駅までバスで30分ほど。

いまになってもっと足しげく通っておけばよかったと悔やまれる。

渋谷や新宿ばかりに出かけていたあほ。

恥ずかしながらあほが帰ってまいりました。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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