長田さんは私の上司だった。
熊本から東京に出向してこられてその2年間お仕えした。
もう19年も前のことだ。
単身赴任の寮住まいだったけれど、当時上智と立教の大学生だった息子さんと娘さんは東京で暮らしており、奥さんだけが熊本市の郊外の「益城町」のご自宅にひとり住んでいるというへんてこな単身赴任だった。
熊本に戻られてから誘われるまま熊本で奥様とともに何度かお会いし、「馬刺し」(心臓の血管の刺身など!も)
をごちそうしてもらった。およそ血の気の引く体験ではあったが思い出深い。
ちょうど8年前、益城はすざまじい地震でたいへんな被害を受け、
当時福岡で単身赴任していた私はその様子をTVで見て衝撃が走った。
断水が続き自衛隊の給水車の映像、、、、
飲み水、トイレ、洗濯はどうする?
私は決めた。
ポリタンクに水を積めるだけ積んで届けよう、と
忘れることのできない御恩がある。
母の介護のために福岡に単身赴任させてもらうその後の道筋をつけてくれた恩人だからだ。
ところが、北九州のホームセンターの売り場からすでに災害支援関係の商品が消えていた。
どうしようもない、、、
その年の冬、北部九州に寒波が襲来し各地で水道管が凍結し断水した。
そのとき、知り合いのところにポリタンク6個分の水を届けたことを思い出し、そのポリタンクがまだおいてあることを確認してとりいそぎ出発することにした。
使い捨ての食器、レトルトカレー、ごみ袋、考えつくすべてのものを手あたり次第積んで。
高速道路を降りたはいいが、スイカの産地の植木のあたりからまったく車が動かなくなった。
自衛隊の車両にまじってのろのろ進む。
出発してから5時間かかり、熊本市に近づくにつれて、景色が無残に変わっていく。
そして地震の爪痕が残る益城に入る。
ところが、あちこち道路が陥没して通行止めになっている。
進めない。
届けようがない。
長田さんにはあらかじめ連絡していない。伝えていない。
おまえはよくここまできた、だけどもういこうにもこのさき進めないし、仕方ない、引き返せばいい、、、
長田さんもきっと許してくれるよ。
すると、どこからか声がする。
ー おまえの気持ちなんてしょせんそんなもんか
ー 同情するだけの、うすっぺらい使命感と自己満足
ー それがおまえの災害支援者気取りの本性か
いこう、まわりみちでもいいから道をさがして届けよう。
小学校の校庭には給水を待つ多くの人たちが並んでいる。
そのそばのお宅に到着する。
お宅の前の道路は地割れしていて、倒壊してこそいないが傾いている家もある。
ところが、お宅には亀裂などなにも見当たらない。
玄関があくと長田さんは驚いて、びっくりしてでてきた。
家の中の食器なんかが落ちて割れてひどいありさまだったけど躯体に損傷はないとのことだった。
「ミサワホーム」だった。
2度にわたる震度7の地震でもびくともしない構造のつくりになっていた。
早くも家屋の被害状況の検査員がやってきていて、京都のゼッケンをつけた検査員が「不適」などの張り紙を玄関に張り付けて回っていた。
災害ボランティアのことを、災害支援者のことを、売名行為だの、人気取りだのいう人たちがいる。
かってにいわせておけばいい。
そのときわたしは、水をポリタンクに積んで届けることのできるお宅が被災地にあることにありがとう、と手を合わせた。
してあげたことはすぐに忘れるようにしているし、ましてや語ることなどしたくはないけど、今回だけは許してほしい。「ご縁」のもつ不思議さを語るために。
わたしが独立して実質的に事務所を開所したのは住まいを4年前に建て替えて入居してからのことで、
入居直後に、その長田さんが紹介してくれたはじめてのお客さんが訪ねてきてくれた。
長田さんの親戚筋にあたり若いやり手の、のちに何件もお客さんを紹介してくれるようになる保険の外交員だった。
まだ、外構工事が終わっていないときのことだった。
そのお客さんは昨年荒川区から鹿児島の奥さんの実家の隣の家を購入し、リフォームして三姉妹の子供たちとともに移住した。東京にも仕事用のベースがあっていったりきたりの生活だ。
そのお客さんと今回鹿児島空港のそばにある「バレル・バレー・プラハ」で待ち合わせをした。