ぼくが生まれる102年まえに下田が開港される。
去年リニューアルオープンした開国博物館では開港170周年を迎え記念展を開催していた。
このチラシはよく編集されている。
小さな港町の下田にあって豪華な記念館は望むべくもない。お土産屋さんと間違ったほど粗末な建物だった。
それでもつつましいながらありったけの工夫を凝らした館内の展示に好感をもった。
館長さんとこの「随行記」のことでお話をうかがったとき、そのおだやかなお人柄にも感銘を受けた。
この本を読んでいたこともあって町をあらためてゆっくり散策する。
その足取りは沖縄をはじめとして、小笠原諸島を経て、石廊崎を望みながら北上、日米お互いが様子をうかがいつつ浦賀に停泊する。
いきなり江戸幕府に乗り込んだのではない。
久里浜に上陸した彼らはようやく日本の武装船に囲まれながら大統領の親書を渡すセレモニーまでたどりつく。
1853年7月のこと。
その後沖縄に寄港後香港に向かう。そして再び沖縄へ。さらに浦賀へと、ここでは江戸湾の水深を勝手に測量したりして幕府ともめる。とにかく狙いは江戸の幕府との直接交渉だったが幾たびの交渉の末「神奈川条約」が結ばれ、「下田」と「箱館」の開港が決まる。
そして、もう来ることはないかもしれないとの思いを乗せて蒸気船は下田へと南下し入港する。
ここでようやく「下田」が世界史に名を刻むことになる。
下田港での滞在は嘉永7年(1854年4月18日から5月12日までの25日間)
随行記はこう記している。
「3時ごろ下田港に到着。変化にとんだ景色と海岸の絵のような美しさに、一同嘆声を発したものだ。丘は1000フィート(300メートル)か1500フィート(450メートル)もあろうか。」
すでに、4月15日に僚艦「サプライ」、「サザンプトン」の2隻が入港しており、続いて「レキシントン」、「バンダリア」、「パウアン」、「ミシシッピー」、そして小笠原諸島へ行っていた「マセドニアン」が合流することで「サスケハナ」を旗艦とするペリー艦隊6隻が勢ぞろいする。
下田の町並みや貧しい庶民たちのようすを思い浮かべながら散策してみる。