2025年のNHKの朝ドラの主人公に小泉八雲の妻「セツ」が選ばれた。
妻であり日本と彼を繋ぐアシスタントだった彼女を描くドラマの決定のニュースに松江は沸いている。
この著作集はいま騒ぎの渦中にあるBOOK OFFで見つけて以来、値下がりする瞬間を虎視眈々と狙っていた。
定価6,300円+税の本であるならば1,900円でそのまま買ってもいいんじゃね?だったが、「東の国」の人の「心」(こころ)はそう簡単なものではなかった。
練馬高野台周辺一帯の住民でこの本を1,900円で購入する人はなかろうとなめきっていて「さらに半額の950円に値下がりするまで待とう」と決め込んだ。
このあたり一帯(練馬西部)で小泉八雲をだれよりも理解しているのはわたくし以外にいない、手にする資格があるのもぼくをおいてない、という自負(うぬぼれ)もあった。
半年くらい経過したあるとき、所定の位置の書棚からこの本が消えていた。
すぐさま練馬西部の区民をさげすんだ罰だと理解した。
ライバルの多い文京区とかだったら迷いなく見つけたときの値札そのままで購入しただろう。
どこか、自分を本棚において練馬を低く見る傾向がある。
人を容姿や、育ち、職業、貧富、学歴などで評価してはならない。
ぼくのなかにどこか根っこに差別の、つまり見下す意識がある。
「あのときなぜ、ブックオフの言い値で買っておかなかった」との思いがこの練馬差別の意識とないまぜになって湧いてくる。
千葉、埼玉でさえ、差別に苦しんでいる。
「東北本線」がいやで「宇都宮線」にしてしまった栃木県の願い。
「千葉ディズニーランド」と堂々と言えない苦しさ。
「練馬」ナンバーは反旗を翻され「世田谷」、「杉並」ナンバーが独立した。苦難の歴史だったろう。
それでも未練がましく彼女が去った本棚の前に立つ。
わたしには珍しい真摯な反省と悔悟の念が通じたのか、彼女は帰ってきてくれていた。
しかも、もってけ泥棒価格の税込390円で!
そっと胸に抱きしめ、お礼の意味も込めて、ほかの本も1冊もおともにレジに向かった。
セツは没落士族の娘で、八雲のお世話をするようにあてがわれた。
地味で控えめな、冬の宍道湖の曇り空を思わせる女性で、この役を誰が演じさせるのかが楽しみ(むしろ不安)ともいえるが、いつものようにNHKは史実・実像そっちのけで高齢者むけに脚色するのだろう。
また、練馬の植物学者牧野富太郎のドラマのように退屈で見どころなく展開していかないように祈る。
「思い出の記」をベースにこの女性の目を通した八雲を描くのが主題だろうから、脚本は相当難しいものになろう。
八雲に怪談を語り聞かせるシーンをおもしろおかしく見どころにさせるつもりだろうが、八雲の業績は西欧と対比した日本人の精神性と文化的な背景の深い考察と洞察にあるのであって、まさにこの著作に凝縮されている精神性は「朝ドラ」ではとうてい描ききれないと確信をもって思う。
そして、それが描けなければこのドラマの意義は見いだせない。
事件も、紆余曲折も、驚く展開もない、つまり「ドラマ性」がない。
ジョージ・チャキリスと壇ふみで懲りているはずなのに。
異常なまでに掃除好きなことも盛るのだろうか。
八雲が東大に教職を得て、大久保に住むようになるとよほど東京暮らしがうれしかったのか性格も変わったように見える。