梅雨のこの時期に、甲府盆地の桃の問屋に今年も通う。
全国の大切なお世話になったあの方へ送るために。
そして、贈答用にならない、ちょっと痛みのあるはなだしものを求めて。自宅用、そしてご近所関係に。
「お世話になった大切な方」に送るのだから届かなかった人たちは大切なかたではなかった、ということになる。
桃の時期の問屋さんは殺気立っていて、入荷・出荷がひと段落して対応できる時間を指定される。
そして当日の入荷の状況をみて、はねだしものが何箱確保できるか確認したうえで武田信玄は出陣する。
水産卸売場と似ているが毎朝年中ではなくぶどうとくらべ桃の時期はきわめて短くひと月もない。
思えば桃ほど取扱いに細心の注意を払わなければならないお姫様果物はないのではないか。
指で押す、つかむ、ぶつける、はご法度で、ましてわしづかみなどは磔ものだ。
これだけ、無防備で警戒心のないフルーツはない。
同じように丸いメロンやらすいかとくらべてみてほしい。
敵からの攻撃を硬い皮で防御し、スイカに至っては何センチもの戦艦大和なみの装甲で身を守っている。
その猜疑心のために海辺で囲まれかわるがわるこん棒でなぐられ、頭をかち割られ、血まみれになることになる。
自業自得。
それにひきかえ仲間であるメロンはまだ三越で売られていたり、お見舞いに珍重されたりと世渡りがうまい気がする。
彼らメロン、すいか系の人生観の基本は人や動物を信じていないことで、すはだをさらけだし、あなたを信じ、なすがままに身を任せ横たわっている桃とは大違いである。
「いちじく」や「ビワ」も同じチェーン店に属するが桃ほどではない。
その対極にあるもっとも世の中を信じてないのは「栗」だろう。先祖がよほどひどいめにあったのだろうと察する。
スーパーにおかあさんといっしょに3歳の幼児「かい」がやってきたとする。
おかあさんは子供がなにをしようと注意しないいまどきのママだったとしよう。
やつらは目に付くすべてにわたって触り、押す、つまみ、落とす、あらんかぎりの相撲のわざでいたぶる。
桃はたまったもんじゃない。
やつらはマングースなみの天敵だ。
「がえんぜない」子供などというがそうではない。
スーパーには勤めないつもりでいる。
なぜかといえば果物コーナーで桃を指でつついたりする子供をみつけたら羽交い絞めしてしまいそうだから。
そしたら逆に店長に羽交い絞めにされる。
あまつさえ、摘み取りのさい、あるいはまたは箱詰め、搬送のさい、あらゆるシチュエーションにあって受難が待ち構えている。事故ではなく小学生のくせに成熟しすぎて自滅し不良になってしまう子もいる。
その幾多の妨害のなかで無事敵艦に体当たりできるのはそのうちのどれだけだろうか。
これは、はねだしものにもなれなかった子たちであとはジュースとして桃としての命を終えるしかない。
あまりにもかわいそうではないか。
いつもぼくは行き場のないこの子たちをたくさん引き取っていく。
大将はさすがに、問屋としての矜持があるのかこれで儲けようとする気はさらさらなく、毎年ひと箱以上ただでもらい受ける。
去年は「暑いやろ、ごくろうさん、これでも飲んでがんばりや」とビールを差し入れたらいつもの3倍増しになった。
今年は「気はこころ」を忘れてもうた。
贈答用として日本中のご家庭に送られる子たちと、その境遇の違いは余りある。
届いた桃の箱を開けた時の家族の歓声と笑顔、家族の団欒、はたぼーへの感謝と賛辞、、、
農家のみなさんもつらいだろうと思う。
どれだけ手をかけ大切に育てたかわからない。
今年は桃の花が咲くのが2週間遅れたとのこと。
あたりいちめん、桃とぶどう畑がひろがる。
そしてすぐ近くのワイナリーでいつもの一升瓶の日本ワインを仕入れて帰ろう。