じじいになって日本の古典芸能を体験してみたいと思うようになった。
武家に愛された「能」と違って歌舞伎は江戸中期からはじまる江戸の町人向けの大衆演芸で「見世物」という印象だった。
時節柄、出し物が「納涼歌舞伎」となってなまけものの職人とわけありの女幽霊がまきおこす貧乏長屋に住むご近所さんとのどたばた劇だった。
歌舞伎デビューとしては暗く、陰気な人情喜劇で気が滅入る。
5,500円の3階席。
左右にペアの桟敷席があって、1階の桟敷席は専用の入り口ドアが設けられている。
お昼時にはここでお弁当をいただける。売店のはいまいちで、どうせならデパ地下のいいやつを持ち込みたい。
なるほど、この席でお見合いするといい。これなら東西に真正面からほどよい距離で向き合って時間をかけて相手をじっくり観察できる。
脂ぎった落ち着きのないやつではないか、マザコンぽくないか、ちゃらくないか、ヴィトンのバックをもったケバイ女ではないか、これから一緒に暮らすわけだから見定めるための視線はきびしい。
外国人はちらほら混じる程度。開演前には満席。
大衆演芸だから、題材は源氏や平家でなくてもいい。純粋に楽しみたい。
昭和の中ごろの松竹新喜劇は笑いあり涙ありの庶民の人情喜劇が中心で、芸者衆が踊りを披露したり、より芸能ぽかった。それが吉本新喜劇につながって、時代の変化とあわせたどたばた芸になっていったのだろう。
ペリーの艦隊は艦に招待された江戸の役人が連れてきた芸人一行が披露した出し物に「これは音楽と呼べるものじゃない」と吐き捨てた。都都逸や義太夫でも唸ったんちゃうか、と思った。
久里浜に上陸したペリーの乗組員は自分たちが軍楽隊が演奏しながら行進しているのに「どうしてここには音楽がないのですか?」と江戸の役人に尋ねた。
太鼓と三味線に笛の貧相な楽器と単調な調べ、異様なちょんまげ、白粉、お歯黒、下田の混浴銭湯、
満州族の辮髪や、インディアンの羽飾りなんかと同じようにみていたのだろう。
わざわざ江戸から相撲取りをつれてきて艦隊に米俵を運ばせ、こんな男たちがわんさかいるんだと見せつけるのがやっとだった。蒸気船も、大砲もないぼくらのおじいさんのその上のご先祖たちはそれくらいいっぱいいっぱいだった。
ただ、西欧は戦争にあけくれて、ペリー来航時にはあの、火種の「クリミア」半島をめぐって、ロシアとトルコ、ロシアを支援するイギリスが戦争をはじめた。
残念だけど西洋音楽とはくらべる意味もないがくらべようもない。
鎖国はキリスト教を怖れたためだけど、副作用が大きすぎた。
やはり、人はいろんな人たちと交流して刺激を受け、自分の劣っているところ、へんなことに気づいて、高みをめざすほうがいい。
自分は自分だけで成長できない。
「天井桟敷の人々」(1840年・仏)の映画の舞台シーンには圧倒された。
同じパリの大衆演劇でありながら、完成度は高い。
これからもっと、いろんな出し物を観てみよう。