「栗山大膳」黒田藩のお家騒動 2024/10/16

黒田長政死後跡を継いだ子の「忠之」はどうしようもないやつで、

お家取り潰しになりかねない幕府禁制の軍船の建造をするわ、子飼いの小姓として仕えていた倉八十太夫をかわいがり、家老にとりたてるわ、そして仲良しグループで酒浸りの生活。

讒言するのは栗山大膳のみとなり、自らへの処分を覚悟の上幕府に公訴する。

そして、幕府は

「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える。」「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。」

家康は徳川幕府ができたのは長政あってのこととまでいっている。


この忠之のいやらしい顔、お友達とよなよな「桜を見る会」をやって、老中萩生田をかわいがり、統一教会とずぶずぶになって裏金まみれの政治をしていたのだろう。

この「栗山大膳」は歌舞伎の「お家狂言」のジャンルの「お家騒動」ものとなって、河竹黙阿弥作として明治15年に新富座で初演された。

歌舞伎の演目を調べているうちに大河内伝次郎の映画があることを知り、さっそくアマゾンプライムで視聴する。

大膳は幕府に忠之が軍船を建造したのは幕府に対抗する思いなどないと必死で説得にあたっている。

黒田藩の防波堤となってその存続を訴えるだけでなく、主君である忠之への制裁を避けるために尽くしている。

朝倉市のHPによると、

「大膳は、遠賀川流域の洪水調整や灌漑、水運を目的に、遠賀川から洞海湾に通じる堀川の工事を元和7年(1621年)に着工しています。長政の死によって中断しましたが、128年後の宝暦元年(1751年)に再開し、宝暦12年(1762年)に完成しています。灌漑用水として田畑を潤し、物資の輸送路としても活用されました。全長約12.5kmで「大膳堀」と呼ばれています。」とある。

衆議院議員に立候補してくれんかのぉ。


この人でもいい。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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