
水俣の奇病が新聞の記事で騒がれるようになるのはぼくらが生まれた年、1956年のこと。
最初に報道されたときの犠牲者は猫だった。

水俣はチッソの企業城下町で工場長が市長になったこともある。
認定されてからも昭和43年まで有機水銀を垂れ流していた。

チッソが頑なに熊本大学の調査結果を否定し告げてきたことに憤りを覚える。


資料はこのサイトによる。
公式に「水俣病」と確認されたのが1956年5月1日。
資料館のアドレスの195651はそれに因む。
ぼくらの育った北九州八幡の洞海湾は工場の廃液で魚の生息さえできないほどだった。
硫酸化合物で変色した湾内はスクリューなど船体にダメージを与えることから船主は寄港をいやがったほどだった。
小倉のカネミ倉庫のこめ油によるダイオキシン事件も身近だった。1968年のこと。
いまも終わってはいない。
「母と子の絆~カネミ油症の真実」の10月より映画公開中
ただし、大阪と京都の2館のみ。
“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】 – YouTube
