ことの発端は歌舞伎の人気の演目「俊寛」
平安末期の真言僧の「俊寛」はなんで鬼界ケ島に流されたの?3人が流された島はどんな島?
一緒に流された人のことを知りたい。
調べ始めたらもう、止まらない。
平安末期の1177年、京都六波羅にあった平家の横暴にたまりかねて、後白河法皇の側近「西光(藤原師光)」と同じく側近だった「俊寛」、西光の義兄の藤原成親(平重盛の妻の兄)が平家打倒の謀議をする(でっちあげとする説もあり)。
途中の経過は省略するが、結局後白河から「院宣」を賜り全国の源氏に挙兵させることになっていた多田行綱がこっそり平清盛の屋敷にいってその企てをちくってその計画は頓挫し、俊寛と藤原成親の子、そして検非違使の平康頼の3人が島流しとなる。
後白河法皇の奥方「建春門院」は平時信の娘、後白河と建春門院との子が高倉天皇。そしてそのお后が「徳子」で建礼門院であって、平清盛の娘。当時は、もっとも徳川時代にもたすきがけのように政略結婚をしている。
平家との仲介役だった建春門院が亡くなったことから争いが表面化する。
平家と天皇家、そして天皇家と藤原氏とのつながりを家系図を表にでもして確認していかないととても理解ができない。
歴史の授業はこの事件だけでひとコマ一時間はゆうにかかる。
パワポで20枚くらいのシートをつくらんと説明できない。
後白河が延暦寺の僧兵に挙兵させて平家と戦わせるよう仕向けて平家の打倒をもくろんだ、というのが定説なのかな。
ちくった多田行綱は源氏の一族である。
さて、謀議の首謀者「西光」はどうなったか。
「口裂き」の責苦で自供させ斬首、
もう一人の「藤原成親」はいったん助命される(平重盛の妻の兄だったからか)が備前に配流されるも食べ物を与えられず、崖から「菱」(二股に分かれた鋭い刃物)が敷かれた谷に落とされる。
そして「俊寛」さまはというと、口裂きも崖から突き落とされることもなかったが、「鬼界ケ島」に島流しとなる。
俊寛とともに流されたもうひとりは「藤原成親」の子の「藤原政経」(西光の義兄の子)。
その「鬼界ケ島」だが、現在の「硫黄島」といわれている。
Wikiによれば、諸説あるものの、
文字通り「硫黄」の島。
いまはともかく、絶海の孤島で、
渚に打ち上げられたあらめで命をつなぎ、、、この世の人には見えず、、、すざまじい書きぶり。
いまは舞台で良寛が着るような「ぼろきれ」が集まらず苦労している、とのことだ。
NHK+で中村勘九郎の硫黄島での公演を見ることができた。
赦免されることなく京への夢を絶たれた俊寛はこの島で生涯を終える。