昭和50年2月 19歳 大学受験へのエール 2025/1/8

暑い時期は避けて、汗をかかずに作業できる年末年始に5年ぶりに3階の倉庫とリビングルームを本格的にかたづけた。

引っ越しの際に持ち込んだものの倉庫で眠っているだけだったこれまで死蔵していたラック、タンス、ストーブなどを粗大ごみ回収センターに何度も通って回収してもらった。

書籍もほとんど裁断してSCANSNAPでデータ化してしまった。

そしてこれまで長きにわたり処分するのをためらってきた思い出の品もこれを機に「おもいで化」する。

「手紙」

アルバイトで渋谷の進学塾の先生をやっていたときに生徒たちからもらった手紙、

友人、彼女たちと交わした手紙、

そして、大学受験のために上京(上横浜?)したときに滞在させてもらった叔父の住むアパートの地図が描かれた手紙。

慶応と横浜市大しか受験しなかったが2回ともこのアパートからひとりでなんのストレスもなく、迷いもなく大学に向かった。

バスは「大船駅」と大学のある「金沢八景」を丘沿いにつないでいた。

その間、叔父は新婚旅行中だったのだ。

岡山、たしか三原までしか山陽新幹線は開通してなかったときのこと、国鉄の列車のことをわれわれは「電車」ではなく「汽車」と呼んでいて、そのころ流行っていたチューリップも「ぼくは汽車に乗る」と財津さんは歌った。


大船の三菱電機のインダストリアルデザイナーをしていた叔父は多感な頃のぼくにいろんな影響を与えた。

ひとつはBEATLESへの心酔であり、もうひとつが太平洋戦争がらみの戦史、航空機への傾倒。

もっと、ずっと大きいのがけっきょく、合格した横浜の大学で出会った人と迷いもなく結婚したこと。

するとこの手紙はその後を決定づける不思議な出会いをお膳立てしてくれたものということになる。

いま、読み返してみて、ぼくはこれまでこんなに親切な手紙を書いたことがあるだろうかと自問する。



いま、横浜、横須賀あたりを電車で眺めると、よくこんな坂だらけのまちに住んでいたもんだわと思う。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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