小泉八雲 「心」平川祐弘訳 2017.2

「小泉八雲 個人完訳 日本の内面生活がこだまする暗示的諸編」平川祐弘 2016.5初版

(河出書房新社)本日購入。

平川教授はハーン文学研究の第一人者であるとともに「ダンテ」の翻訳の権威でもある。

教授はまた、最近の天皇陛下の生前退位問題の識者会議での中心的なメンバーとしてしばしばニュースでも取り上げられており、図らずもお顔を拝見することもできた。

「心」岩波文庫 平井呈一氏訳と読みくらべて、訳が微妙に、少なからず違うことに気がつく。
「神々の黄昏」を例に違いをあげてみる。
平川祐弘 個人完訳  河出書房新社版(2016.5)


「深遠なる大乗仏教の仏陀はゴータマ、具体的な人物としての釈迦牟尼を指すのではない。また、如来ではない。そうではなくて、単純に人間の中にある仏性である。われわれはすべて数限りない無限なるものの蛹(さなぎ)である。その蛹のひとつひとつには霊的な仏陀が含まれている。そして百千万億すべての仏性は一なのである。色界の迷夢に耽ってはいるが、人間にはすべて仏陀になり得る仏性がひそんでいる。我欲が滅するとき、釈尊の微笑は世界をふたたび美しくするであろう。尊い犠牲が払われるたびに人間に正覚の時は近づく。」


ハーンが仏教を語るくだりで仏教の本質を示したものとしてお私がいちばん好きな部分。

一方、定番ともいえる岩波文庫での平井呈一訳(1950年10月)では、このように訳されている。


「われわれは、ことごとくみな死んではまた生き返る無限無窮の蛆虫(うじむし)である。その蛆虫には、どれにもそのなかに仏陀を宿している。百千万億、すべての衆生はみなおなじである。阿僧祇劫において、幻影のうちに迷夢を追ってはいるけれども、しかし、どんな人間でも、すでに生まれ落ちた時から、のちに仏陀になりうる仏性をそれぞれ先天的にもっているのである。五欲驕慢の心が滅するときに、仏陀の微笑は、ふたたび世を微妙にするであろう。尊い犠牲を払うたびごとに、人間は正覚の時に近づいて行くのである。」


「蛹」と「蛆虫」とでは本質的にはどれほど大きな違いはないけれどが受ける印象が違う。
みな、虫けらとして生まれるけれどその中に仏陀になりえる仏性をもっているという主旨にかわりはないが、蛹が羽化して、蛾の姿になるのか、蠅になるのか、修行によって、また、仏を信仰することにより仏の心を宿した人間となるのか、蛹のほうが蛆虫よりもひろがりを感じることができる。反対に自分たちはもとはといえば腐敗にうごめく悲しい生き物である「蛆虫」として生まれ、と限定することでより強いイメージを我々に与えることになる。

しかし、訳者によってこうも違う。それはクラシック音楽の指揮者とて同じで、岩波文庫版で育った私にはどうしても違和感が残る。原語を探ってみるのもよいかもしれない。「停車場にて」「ある保守主義者」「趨勢一瞥」など、私がハーン文学の頂点と理解している作品の読みくらべもまた一興である。

平川祐弘氏は本書の解説「日本の内面生活解釈者としてのハーン」において、

「ただし私は現行の岩波文庫訳にははなはだあきたらぬ者で、いまここにその三冊*の個人完訳を試みつつある次第である。」(P278)と「齢85の学究として」個人完訳への動機と決意を記しておられる。*三冊とは「怪談」「知られぬ日本の面影」そして、この「心」(1896年・明治29年刊)である。

2017.2.6

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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