2018年4月15日

猫にやる気はあるのか

ワンはあたまがよくて小型犬など3歳程度の子供の知恵があるという。いたずらして怒られた後に「けがをしたように装い、飼い主の同情を誘う」という。飼い主の目の前で足をひきずってみたりして。(えさをあげると、とたんに走ってやってくるのでばれてしまった)。ワンならやりかねん。ひるがえって、にゃんはどうか。わんにくらべて知恵は劣る。いまの飼い猫は12年前、野良猫だったクロネコがうちに居着いて、庭で産んだ姉妹だ。部屋に入れて以来毎日毎日名前を呼ばれて、撫でられて暮らしてきた。二匹はいつもことことふわふわ寝ている。そうじもかたづけもせず、ごみだしも手伝わず、お風呂もはいらず、夜はおかあといっしょにまくらをして寝ている。そしていつもあくびしている。向上心もないようだ。学校にも通っていないし字も書けない。「イマジン」ではないが天国もないし、ビートルズも信じないしキリストもない。信じているのは真夜中に名前を呼ぶヨーコと自分だけ。家飼いだから地域の早朝の集会にも参加していないため、やくざ猫のなわばり争いにも巻き込まれていない。自分が気が向いて甘えたくなるときだけやってきて、頭をごつんごつんぶつけて、すりすりしてくる。ただ、ワンのような知恵もはげしいパフォーマンスもないが、ときどきじっと私の目の奥を「橋本かんな」のようなまんまるな大きなブラウンの目でしばらく静かにのぞき込むことがある。「なんか今日あった?」って。不思議だけど生き物どうしだから心配したり、なぐさめたりする。そして、作業中のおやじの机のキーボードや新聞の上にお尻を向けて座り、毛づくろいをする。私はそんな愛猫の名前を一日になんどもなんども呼んで、トトロのようにぶよぶよに太ってしまったにゃんの背中や顔、手や足を、ぷよぷよの肉球をやさしく撫でてさすって、かわいがる。この子たちは私のうちでかわいがられるために生れてきた、と思っている。


単身赴任ではにゃんは飼えず悶々としていた。通勤途中に身寄りのない野良猫のお世話をしている大将がおられて、手作りの「猫小屋」に何匹ものにゃんたちが身を寄せ合って暮らしていた。その子たちに声をかけるうちにしだいに慣れてきてあまえてすりすりしてくるようになった。北九州の真冬の響灘から吹き付ける北風の寒さといったらハンパではなく、かわいそうで仕方なかった。大将とも仲良くなり、Costcoで仕入れたキャットフードを差し入れたりしているうちに、「ビールのもらいものがあるけど、飲まんね。自分は飲まんから。」とはたぼーの何をさしおいてもの好物、ハタボーフードをお返しにもらったりしていた。「家にあがっていかんね」と危険人物のおやじを家に招き入れ、コニャックをおみやげにもらったこともある。大将が酒好きだったら、プチ宴会になっていたと思う。

しかし、この単身赴任にからむ5年間のブランクは大きかった。にゃんはすっかりおっかあになついてしまい、私がために帰ってきても、「あんた、だれだっけ?」としばらく愛想がない。笑顔もない。家を空ける前はろくよんで私が勝っていた。それがおっかあが帰ってくるのが自転車の音でわかるらしく、玄関に走っていき、ドアが開くのを昔の日本の奥様のように待っている。そして「おかえりなさいませ、ご飯になさる?それともお風呂?」といっている。そして、足にまとわりついて、顔を見上げてにゃーにゃーしている。二階に上がれば二階に上がり、お釈迦様に付き従う動物たちのようだ。


冬でも野宿の野良は食べ物にもありつけず、幸せから見放されている。えさを求め、闘いに明け暮れるすさんだ生活で顔つきもしだいに極道のように凄みを増してくる。ドスをもっている極道顔のにゃんを飼ってやろうという人はもういない。渡世人になったにゃんも昔は愛らしい子猫だったはずだ。


片や、ストーブの前でしあわせそうにことこと寝ているにゃん。ごはんには「Ciao チャオ グラッチェ かつおミックス」などもらってぬくぬくと暮らすにゃん。うちの子たちももとはといえば野良の出なのだ。それが飼い猫となってかわいがられるかどうかでこんなにも違ってくる。侍として召し抱えられるか、浪人となるか。でもストーブの前で「チャオ チュール」をもらって暮らすことをもう極道にゃんは望まないのかもしれない。

 

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