太宰治と伊馬春部

没後70年になるのか。中学高校時代はまったく興味もなく関心ももっていなかった太宰治。書店には例によって特集本が山積みされている。売れる、からなのだろう。

あれは経済史を専攻していた大学3年の横浜、東横線「白楽」駅近くに下宿していた時のことだった。六角橋商店街のはずれの小さな本屋で立ち読みをしていた。なにげなく手に取った随筆「家庭の幸福」を読み始め、目で文を追っていくうちに体中に電気が走った。脚が震えた。忘れもしない。「家庭の幸福は諸悪の元」というアンチテーゼが主題で、「私」はラジオから流れてくる戦後の復興を担当している役人のへらへら笑いに我慢ができなくなる。その役人にとって幸福とは自分の家族を喜ばせるためだけのもので、本当の愛とはとてもかけ離れたものだ、というキリスト的な愛の形を私の前に提示した作品だった。(死後23年8月「中央公論」に掲載)安倍内閣の品格も品性にも欠ける大臣や官僚の姿と重なり合う。

以来、文庫から全集から、手あたり次第、書簡集に至るまで多くの若者たちがそうであったように耽読した。本屋に行くとふらふらと吸い込まれるように太宰の本に向かった。全集は集めたのではない。集まった。代表作にあげられているものより短編こそがすぐれている、と思う。「黄金風景」や「東京八景」、エッセイ集「如是我聞」(刊行は死後の11月)、処女作「晩年」に収められている作品群はとくに見事でユーモアや諧謔に富んでいる。

6月19日が桜桃忌。これからも若者を惹きつけ、読み継がれ、語り継がれ、慕われ続ける作家であることは間違いない。


北九州市の八幡西区にある旧長崎街道「木屋瀬宿」には劇作家の「伊馬春部」(いまはるべ・NHKなどの放送作家として知られる)の実家があり「旧高崎家」として記念館となっている。そこには数枚の写真が展示されておりその中に太宰治が師事していた井伏鱒二とともに太宰と3人で写ったものがある。全集の書簡集には伊馬春部(太宰は伊馬を「信用できるドラマチスト」と評している。昭和21年10月24日の太宰が伊馬に宛てた葉書より)とのやりとりがよく出てきていたので驚いた。もちろん、伊馬がまさか木屋瀬の高崎家の人だと知る由もなく。「その節は太宰がお世話になりました」と手を合わせた。

玉川上水に入水したのが昭和23年6月13日。その年の2月3日に太宰は目黒区緑が丘に住んでいた伊馬宛にはがきを送っている。(太宰治全集 筑摩書房 昭和52年6月 初版 第11巻 373頁)

「拝復 お葉書うれしく拝誦いたしました。本当に、うれしく。このごろ仕事も体も快調。八日こちらも好都合。時間は早いほどよろしく、二時から三時頃までに、れいの仕事部屋においで下されたく、お待ち申しております。但し、小野様をお迎えするには、あまりにむさくるしいところですから、小野様のはうはまた、日と場所をあらためまして。

こんなハガキ使ってお許しください。」

この葉書を送る前月1月上旬には太宰は喀血している。そして「グッドバイ」を机上に残し40歳の6月19日の誕生日を迎える直前、山崎富江と入水する。

 

北九州市八幡西区木屋瀬4-12-5

 

2018.6.14


 

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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