この夏も小倉の町に祇園太鼓の太鼓の音が響きはじめる。2018年は7月21日の大賑わい前日から大賑わい翌日の23日の打ち納めまでが本祭り。松本清張はこの祭りについて短編「黒地の絵」(昭和40年)でこう描き残している。
太鼓は祭りの数日前から音を全市に隈なく鳴らしていた。祭礼はそれが伝統をもった囃子として付随していたから、祭りの日の前より、各町内で一個づつ備品として共有している太鼓を道路の端に据えて打ち鳴らすことは習慣だったのだ。一つは、それを山車にして市中を練り歩く子供たちが撥(ばち)さばきを覚えるためであり、一つは太鼓の音を波のように全市にただよわせて祭りの前ぶりの雰囲気を掻き立てるためであった。暑い7月12日、13日が毎年の小倉の祇園祭の日に当たっていた。祭りの日が近づくと、撥は子供たちの手から若者たちに奪われ、そのかわり、音は見違えるように冴えて活気づいてくるのであった。
昭和25年の7月11日夜、城野にあった小倉キャンプで起こった黒人兵たちの集団脱走と市民への略奪と暴行はそんな祇園の晩のことだった。朝鮮戦争で国連軍はソウルが陥落し敗走を続ける。国連軍の兵站基地となった小倉に次々と戦死した米兵の遺体が運ばれてくるなか、まもなく最前線に送られ、死を予感したおよそ250名の黒人兵が銃と手りゅう弾をもち、排水口の土管を通って脱走する。市内に鳴り響く「陶酔的な舞踏本能をそそのかせる」囃子と太鼓の音にせきたてられそれに呼応するかのように。城野から散っていった黒人兵は民家に押し入り、酒を強奪し女性に暴行した。その後米軍の鎮圧部隊に捕らえられた黒人兵は二日もしないうちに戦争の最前線に送られる。妻を5人の黒人兵の暴行から守ることのできなかった男は、キャンプで遺体処理をしながら妻に暴行した黒人兵の死体を探す。「骨膜刀」(ナイフ)を手に、そのとき見た「裸の女の下部」が彫られた刺青を求め。
西日本一の陸軍の造兵廠があった軍都小倉の負の歴史。関東大震災で東京の造兵廠が甚大な被害をうけたことで大陸に近かった小倉があらたにその役割を担うこととなりその後、軍都として歩むことを運命づけられた。そして敗戦を迎えるが続く朝鮮戦争で小倉はなおも続々と運ばれてくる米兵の膨大な戦死者の処理に追われることになるなかで悲劇は起こる。城野方面の民家からの暴行・強盗・脅迫の警察への被害届は78件だが声をあげない暴行事件の実数はわからないという。なお山中をさまよっていた黒人兵がMPに確保されたのは事件から12日たってのことで、すでに祇園太鼓の音も聞こえることはなく、いつものけだるい暑さが充満しているのみだった。MPの司令長官は黒人兵が寝泊まりするようになった日に、小倉市当局に対し「祭典に太鼓を鳴らすのはなるべく遠慮して欲しい」と申しれをしていたが、市は太鼓はこのお祭りに不可欠である、そして申し入れの理由が曖昧であるとして聞き入れなかった。
2018.7.21