職場の仲間たち16人でマイクロバスをガイド付きで貸し切って上海から杭州を回った。上海郊外にある取引先の日系現地法人の視察をかねた4泊5日の旅。もう10年も前になる。
30階を超える高層ビルの建設ラッシュであちこちで工事中だった。揚子江は川というより海のようで大型の貨物船やタンカーまでもが行き来している。
ここでも、日本人の情に訴える中国人民の販売作戦に出会った。
バスにはいかにも気の強そうな天童よしみ風のバスガイドがついていたが、ほかにはたちすぎの若い女の子がなぜか乗っていた。ガイドの見習いくらいにしか思っていなかったが我々一行の観光や視察の後のフリータイムの街歩きにもついてきて、写真をばしばし撮ってくれていた。半ば中国国営のツアー会社に組んでもらった旅でとくに気にすることもなく、かたことの日本語で愛想を振りまく若い子と笑いながら観光していた。
林(りん)さんといった。りんさんは私たちのカメラで撮影してくれるだけでなく、自分の2台の一眼レフカメラでも我々のスナップや集合写真を撮っていた。
旅行中ずっと一緒で夜の街を案内してくれたり、コンビニまでついてきてくれていたりんさんはすっかりみんなとなじんでうちとけて朋友(ポンユー)になっていた。
そのりんさんは上海の虹橋空港に向かう帰りのバスの中でこう切り出した。
「旅はきょうでおしまいですね。みなさんとはきょうでおわかれですがワタシはミナサンノ写真でアルバムをつくりました。これです。(全員に回覧する)
ゴキボウノかたはどうぞカッテください。」
- 「で、いくらだい!」と長老がたずねる。
「1万円デス!」
バスの車内で16人のおじさんの笑いに近いどよめきがおこる。
安物のファイルで綴じられたチープなアルバムだった。
1万円のアルバムをりんさんに返したあとしばらく沈黙が続く。あたりまえだがだれも手を上げない。みな黙って高速道路の外の景色を眺めている。
すると、りんさんはしくしく泣き始める。
それを見た長老は
「泣かないでもいいだろ。1冊も売れずにこのまま帰るとりんさんの会社の人におこられるんだろう。でも、いくらなんでも1万円は高いよ。」
しゃくりあげるりんさん、うなずく。
長老、「5千円だったらどう?人数分つくっているみたいだし会社に持って帰ってもどうしようもないもんな。みんなで買ってやろうよ!なぁ、みんな!」
りんさん、なおもしゃくりあげながらうなずく。このときは涙がことばのかわりになる。
長老の音頭取りでこの件はおさまった。
最初から彼女はこのアルバムを売るためだけの目的でバスに乗り、笑顔をふりまき、写真を撮り、夜までつきあった。「お土産や」が素性を伏せたままバスに乗り込んでいたのだ。帰国する前日は夜遅くまでアルバムづくりをしていたのであろう。
時間は5日間しかない。その間に一行とどうしたら仲良くなれるか、アルバムを買ってくれるまでうちとけることができるか、買ってくれないときはどうするか、どのタイミングで泣くか、を考えたうえでこのツアーに同行していた。ツアーの客筋により戦略はかえるはずだ。
日本人は若い子の涙に弱いことも知っていた。そして、われわれの長老のようなおじさんがそのとき必ず登場するであろうことも織り込み済みであった。でも「涙」は本物だった。ウソ泣きではない。じっさいに作った16冊が1冊も売れずに会社に持ち帰ったら、上司に叱られて泣くことになるからである。いま泣くかあとで泣くかの違いだけ。
この「アルバム売りの少女」のばあい最後の追い込みが「しくしく涙」であった。すごむだけが追い込みではない。その涙で長老の心に忍び込み、長老の口からアルバムを一座に売らせる。泣いた後は一言も言葉を発しなくてもよかった。
彼女は自分の人件費、バス代、天童よしみへのコミッション、撮影代、食費もろもろすべて背負って単身乗りこんできており「売れませんでした」ではすまされない。日本人とは覚悟が違う。
おばさんが泣いても成功しない。そもそもおばさんは泣かない。少女は幸薄いけなげではかなげな子ほどよい。
この長老は私が仕えた数々の上司のなかでもトップクラスの尊敬できる上司だった。
しかし、この手は「大阪のおばちゃんたち」にはまったく通用しないだろう(笑)
りんさんはいまでも虹橋空港行きのマイクロバスでしくしく泣いているのだろうか。さぞ、泣くのも上手になったろうな。