謹慎していた徳川慶喜が2カ月すごした「葵の間」と徳川家の御霊廟を寛永寺の住職さん自ら案内していただくという機会を得た。
江戸幕府開府まもない1624年天海上人創建の徳川家の歴代将軍の菩提寺。天台宗京都比叡山延暦寺と同様、江戸の鬼門である北東に位置し江戸を災いから守る寺院として徳川家と深くかかわることとなる。東の比叡山、つまり「東叡山寛永寺」が正式名称で子院を多数従え根本中堂がお寺の中心をなす。
「寛永年間」に創建されたお寺で、江戸の年号を使用することが許された唯一のお寺で上野公園、動物園、不忍池、東京国立博物館、美術館、東京芸術大学一帯、つまり上野駅から鶯谷駅にかけての一駅分の高台がかつては寛永寺の敷地でいかに広大な寺院であったかがわかる。
東京シティーボランティアガイドの月例会は20名募集のところ希望者多数のため抽選となったが新入り枠があったのか参加させてもらうことになった。
歴史に詳しい方は徳川家の菩提寺は芝の増上寺で浄土宗を手厚く保護したということをご存じでしょう。しかしながら家康公と天海上人が特別な信頼関係にあったこと、家康をあがめる家光が寛永寺で葬儀を行いたいと遺書にしたためるなど以来寛永寺は徳川家にとって重要な社寺となりました。
徳川慶喜が蟄居していた「葵の間」は町人たちの住む長屋とかわらぬほど簡素なつくりで、謹慎の身であることをしのばせる。将軍でありながら江戸城へ入れなかった慶喜と「鳥羽伏見の戦い」の歴史的意義については一般的な評価とは異なる評価が一方でなされておりもうすこし掘り下げてみたい。
*「葵の間」も将軍たち御霊廟も撮影禁止となっている。
御霊廟への入口にはいくつもの門があって、礼拝はお殿様と限られた従者のみが許されたという。
将軍たちは都心とは思えない林の中で眠っておられる。
5代将軍綱吉公、8代吉宗公、13代家定公のお墓である御霊廟は木々がうっそうと茂る広大な林のなかにあって、石段も当時のままということであった。徳川家の御霊廟のため門は施錠され一般公開はしておらず「特別参拝」のときだけ参拝でき、普段はお寺の僧侶といえども立ち入ることはないということであった。
綱吉さんはこの肖像画を描いてもらうとき機嫌が悪かったのだろうか。
特別なはからいで13代家定公の側室「天璋院」篤子の墓は家定公のすぐ隣にある。
青銅製で装飾を施された門のある綱吉公の墓と石造りの吉宗公の墓が権勢を誇った時代から質素倹約を旨とする時代への推移を感じさせる。
江戸幕府の260年に思いをめぐらすことのできたまことに貴重な体験だった。
2019/10/7
さっそくありがとうございます。
慶喜は戦から自分だけ逃げ帰ったという理由で嫌われてますが江戸無血開城を決めたことで江戸を火の海にせずにすみ、結果的に海外列強に対抗することができた、とかいわれて評価が定まりません。
江戸は殿様から下町から、探れば探るほど興味が湧いてくる町ですね。
このブログの名所旧跡探訪が好きです。
上野公園〜行ったことなーい。他もほとんど行ったことなーい。
田舎者の私はこのブログによっていろんな知識を得る事が出来ています。
個人的には慶喜さんは好きではないのですが(勿論お目にかかって喧嘩したわけではないのですが)篤姫と家定さんが隣で仲良く眠っているなんて微笑ましいですね。
これからも沢山のことを教えてください。
ブラタモリと同じ様に楽しみにしています。