ジャイアンツV9黒江選手がうちにやってきた


黒江さんはご自宅のある練馬をベースにした地域貢献活動のNPOの会長をしておられる。私は縁あってそのNPOのお手伝いをさせてもらっている。

2020年7月11日、NPOの幹部とともに自宅にお礼に来てくださった。


黒江さんは御年81歳。昭和13年鹿児島姶良市(都城に近い霧島のふもと?)生まれ。長嶋さんは2つ上、王さんが2つ下となる。

1964年から1974年までの11年間をジャイアンツでプレーをした。あだ名は「豆タンク」背番号「5」。

友人に「まめたん」という美魔女がいるが彼女といい勝負である。

私の8歳から18歳までと重なる。土井、高田、柴田、堀内たちとジャイアンツ黄金時代を築いた。少学生の頃はおじさんたちやあにきといっしょにナイター中継ばかり見ていた。

高度成長と歩みを重ねるかのように野球は輝き、日本中が沸いていた時代だった。引退後ショートを河埜に譲ったと同時に、つまり黒江さんが引退したあと私はあまりプロ野球を見なくなっていた。

1時間ばかり秘話をうかがうことができた。それをMy-Wikiに追加してみることにする。


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経歴[編集]

鹿児島高校卒業後は、社会人野球の杵島炭鉱、日炭高松を経て、立正佼成会でプレー。都市対抗野球大会に4回出場し、1964年の大会では熊谷組の補強選手とし出場。準決勝に進むが電電東京に敗退。しかし三番打者として起用され8打席連続安打の新記録を達成、首位打者となり大会初の特別賞を獲得した。立正佼成会のチームメートには小川健太郎金博昭らがいた。


ー石炭会社の社会人野球はすでに石炭産業が斜陽で次々と廃部となった。日炭高松時代の昭和35年ころ折尾に4年間ほど住んでいたことがあるということだった。

立正佼成会は姉たちが熱心な信者であったことから二十歳のころ入信した。祖先への感謝や社会貢献はこの会の教えによるところが大きいという。家業の倒産により進学を断念。

ニッタン高松    

水巻を中心に蜑住あたりまで炭鉱があった。


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プロ野球時代[編集]

同年8月5日読売ジャイアンツに入団。165cmと小柄ながら堅実な守備で、土井正三とともにV9巨人の内野の要となった。当時の正遊撃手に広岡達朗がいたことから入団2年目までは出番がなかったものの1965年にはイースタンリーグの首位打者を獲得。一軍でも1966年に頭角をあらわし、首位を争う対中日ドラゴンズ戦で小川健太郎から三塁打を放って川上哲治監督から信頼を得る。


華麗な守備で鳴らした広岡さんとは二人部屋の同室で守備はもちろん生活全般にわたっておしえてもらった。驚いたのは広岡さんはいつも部屋をきれいに整理整頓していたことで、きれいにしてないとすまない性格だった。

あるときお茶の入れ方でこっぴどく怒られたことがあった。チームメイトと一緒にお茶を入れて飲んでいたときのことだ。

広岡さんは急須の蓋をとって中をのぞいた。そして、大声で私を怒鳴った。


「おまえ、お茶の入れ方も知らんのか!」

やかんで飲むなら別だが急須で飲むときは最後の一滴まで注ぎ切らないと次にお湯を注いだ時お茶の葉が開いてしまっていて美味しく飲めないだろ!

後日、黒江さんが旅館に泊まったとき仲居さんが自分と同じようにな入れ方をしたのでやさしく注意したのだという。「自分はそれで広岡さんにおこられたんだよ」と。仲居さんは「教えていただきありがとうございました。」と恐縮していたという。


川上さんのことはとても尊敬している様子。

野球ファンなら知っている。長嶋さんや王さんがあんなにじゃかすか打てたのは記録を残せたのは黒江さんや土井さんたちがいたからこそと。


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同年の南海ホークスとの日本シリーズでは全6戦に先発出場。1967年には129試合に出場して打率.278(14位)を残し、レギュラーに定着した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズも全6戦に先発出場、23打数7安打1打点と活躍。1968年には遊撃手でベストナインに選出される。

― 大阪球場での日本シリーズでは忘れられない思い出がある。

1973年大阪球場での南海との日本シリーズ対決

2回続けてトンネルをやらかしてしまった。なじみのない大阪球場はマウンドと内野の守備位置の間に高低差があって打球がイレギュラーにバウンドする、というかバウンドしない。跳ねかえったと思ったはずの打球がそのまま低く流れてしまい捕球できなかった。8連覇はしたものの1974年の引退を予感させるエラー。

それをTVで観ていた広岡さんがその日のうちに電話をくれた。「大阪球場は打球が低めに跳ねるから注意するように」と。(わたしは「それならそうともっとはよう教えてくれんね」とか、「大阪球場の南海ファンは喝さいだったでしょう」とかよけいなちゃちゃを入れる)

そして名手ショート広岡の後継となる。


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1969年には全130試合に出場、自己最高の打率.293(6位)を記録。同年の阪急との日本シリーズ最終第6戦では本塁打を含む4安打を放ち、チーム日本一に貢献した。

1971年からは二塁手も兼ね、1973年まで毎年ほぼフル出場、打率.270前後とコンスタントな成績を残したが、1974年河埜和正に遊撃手を明け渡し、同年限りで現役引退。同じ年に引退した長嶋のような引退セレモニーはなく、シーズン終了後の同年11月30日、静かに現役生活に別れを告げた。


子供のころ右手に大怪我を負い、その影響で送球がクセ球になる(ややシュート気味の変化球のようになり一塁手をはじめ他の野手がキャッチしにくくなる)ことを守備面で大きなネックとしていた。当時投手コーチだった藤田元司と座布団にボールをぶつけるという特訓でクセのない送球を出来るようになった(月刊ジャイアンツに連載されていた、過去の選手をテーマとした漫画で黒江が取り上げられた際に描かれていた)。現役時代の1967年には、鹿児島県人が多い大相撲の井筒部屋で自主トレを行ったことがある。「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)では、当時現役だった鶴ヶ嶺(後の井筒親方)の下、黒江がテッポウをしている写真が掲載された。

遠征中の宿舎においては、土井正三とともに常に長嶋茂雄とは同部屋であったので、夜中でも素振りに付き合わされた。それは土井と黒江が畳を頭の上にのせ、畳に沿って長嶋が素振りをするものである。しかし長嶋はスイングに納得せず、黒江は畳を担いだまま2時間、中腰のまま部屋の中を走り回ったという。


― 黒江さんの実家は精米などをしていた。小学5年生で家業のお手伝いしていたときのこと、麦の穂を押し麦にする機械の目詰まりを取り除けようと手を機械の奥に手を突っ込み指の先を潰す大けがを負った。わずかに指の先が残っていたために爪が生えてはきたものの短くなった指での送球に苦しんだが、かえってそれが後々の正確な送球の厳しい練習につながった。

指導している野球教室でうまく投げられないという子供たちに自分の短い手を見せていわけができないようにしている。


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引退後[編集]

引退後は巨人(1975年一軍守備・走塁コーチ補佐[1]1976年 – 1978年一軍守備・走塁コーチ)、中日(1981年 – 1983年一軍打撃・走塁コーチ)、西武→埼玉西武1984年二軍総合コーチ, 1985年一軍総合コーチ, 1990年 – 1991年ヘッドコーチ, 1992年 – 1993年一軍ヘッド兼打撃コーチ, 1994年二軍監督)、ロッテ1996年二軍監督)、ダイエー1998年 – 2000年一軍助監督兼打撃コーチ)、横浜2001年ヘッドコーチ, 2002年一軍ヘッド兼打撃コーチ)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、日本テレビラジオ日本解説者・日刊スポーツ評論家(1979年 – 1980年)、東京中日スポーツ評論家(1986年 – 1989年1995年1997年2003年 – 2007年)、テレビ東京文化放送解説者(1986年 – 1989年)、テレビ朝日・文化放送解説者(1995年)、NHK-BS1解説者・東京中日スポーツ評論家(1997年)、東海ラジオJ SPORTS[2]解説者(2003年 – 2007年)を務めた。

指導者としては4球団(巨人、中日、西武、ダイエー)でリーグ優勝、2球団(西武、ダイエー)で日本一に貢献している。

― かずかずの球団の優勝にかかわった。いまでは球界一であるという。王さんの率いたダイエーホークスの助監督として着任した当時のホークスはどうしようもないとても優勝など考えられないチームだった。それを選手たちにまず誇りと自信を植えつけることからはじめた。

新人だった和田がいる!城島が、工藤が、秋山がいる!


(ダイエーホークスが二回目4年ぶりに阪神を制し日本一に輝いた2002年(黒江さんは1999年の日本一に助監督として貢献後、2001年に横浜ベイスターズのヘッドコーチとして移籍していた)のその夜の試合をわたしは家族できていた北九州市若松にある「かんぽの宿」で観ていた。優勝の瞬間、ラウンジに集まっていた宿泊客に無理やりホークスファンにさせられ握手を求められたいへんだった。そのときにいまの強いソフトバンクのレールが敷かれたのだといえる。)

いま懸念していることは「王や長嶋がいなくなったらV9という言葉もなくなるだろう」ことだという。そしてふるさと鹿児島をはじめ九州の大雨による河川の氾濫災害で浸水した家屋や亡くなった人たちのことに心を痛めておられた。


会の活動は今年で37年目。

毎年年初に練馬区長を表敬訪問されている。いまの前川区長は野球に理解があってその縁から区の行事に黒江さんは引っ張りだされている。それまで30年も住んでいながらお声がかからなかったという。

練馬区は宝の存在に気付かず、見つけようとせず、区民のために役立てようとせず、なっとらん!とおいらは黒江さんにかわって結んだ。

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

2 Comments

  1. 黒江さんの名前を久しぶりで目にしました。
    アンチ巨人の父が黒江さんと王さんだけは応援していました。
    そうそう、日炭高松に在籍していましたね。
    私が住んでいた辺りも地下は掘られていたと思います。
    自動車学校の横にあるHMが開発した団地がありますがそこは地盤沈下が激しく団地の前には[大型車通行禁止]の看板があります。
    地元の人は、地下は日炭が掘ったからああなるわね~と話していました。
    私達の同級生のNさんも、隣の区の今は工業団地になっていた所に日炭高松の社宅があって小学校入学まではそこに住んでいたそうです。

    おかげでいろんな懐かしいことを思い出しました。
    黒江さん、いつまでもお元気でいてください。

    1. 王さんと黒江さんは別、というのはわかる気がします。ソフトバンクの中村選手のように「大工さんや料理人のようにしっかり仕事をする」方なんだなという印象でした。派手なスタンドプレーや見栄とは無縁な職人で武骨でさえあるのは九州人だからでしょうか。

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