
「障がいを持つ子はその子を大切に育てられる家庭に生まれてくる」という。
うそに決まっている。気休めにもならない。
障がいのある子を持つ親たちは自分亡き後のわが子の行く末を案じ365日その事実をひとときも忘れることがない。
父のルイジはダフネが障がいを持って生まれた時、現実を受け入れられず3日間病院にいけなかった。
ルイジは「悲観論者」という書き込みがあるけどこれも違う。「せいっぱい真面目に向き合おうとするとすればするほど出口がみえなくなっている」おとうさんで、あたりまえのことである。

私がのぞむ社会は障がいを持った子が生まれた時3日も病院にいけなくなることのないような社会で、
365日ひとときも両親が子の行く末を案じることのない社会であって、
横断歩道がなくてもいいような町であることだ。
障がい者が横断歩道しか歩けない社会でないことだ。
金澤祥子という書家がいる。
同じようにダウン症がある。
母の泰子さんは娘の祥子さんが一人で生きていけるようにと書道とともに祥子さんを育てた。そしていま、個展をひらき大家となってそのおおらかで堂々とした書で多くの人たちを魅了している。

ただ、障がい者が一人で生きていくために英才教育が必須であるとするならばそれはやさしい社会ではない。
乗り越える力を障がい者に強いてはいけない。
なによりただでさえ追い詰められているおかあさんをさらに追い詰めてはいけない。
ダフネはスーパーで働いていて「ラベル貼り」が大好きな子だ。
心を寄せるイケメンの店長やスタッフ、そしてなじみのお客さんたちとのおしゃべりを楽しみにしている。
最愛の母を亡くし悲しみに沈んでいるだろうと店長はスタッフとともにダフネが職場に戻ってきたときサプライズのお帰り会を用意してくれていた。
これがこの映画のもっとも心温まるシーンだった。
こんな職場ならわたしたちにもつくることができるのではないか。
障がい者も安心してみんなといっしょに働けるのではないか。
特別な待遇ではなくみんなと同じようにいっしょに働いてあたりまえに暮らせることを求める。
ごくふつうの職場のなかで、店長のような心遣いができる人たちがいて、ダフネのように障がいのある自分をありのままに受け入れて、まわりを自分から愛していくなら社会もダフネを愛してくれるはずだ。
そこに特殊な技能や才能は必要ない。
大好きだった母に会にいくために母の故郷トスカーナへダフネはルイジを誘い二人で旅にでる。
これまで母を介してカーテン越しにしか向き合ってこなかった二人。それが母の死をきっかけにはじめて父と娘が向き合うことになる。
ダフネはともかく不器用なルイジがダフネに出会うための旅だった。
ぬけがらのようになったルイジとの旅先でダフネは出会ったひとたちをシニカルな言葉で笑わせる。親切にしてくれた人たちへの恩返しであり義務であるかのように。
トスカーナの美しい田園風景のなかで母の果たせなかった、思い残した最期の願いがかなったのかもしれない。
