平戸を訪れたとき、海岸べりの美しい白いオランダ商館を見て回った。夜は「豊寿司」でそれまで出会ったことのないようなもっちりとした味わいのひらめを堪能した。町中には「イギリスとのかかわり」を記念するポスターが貼ってあってあれ?ところで「イギリス商館」はどうしたんだろうとの思いがわいてきた。1613年に開設されたイギリス商館400年目を記念する行事だった。つまり訪れたのは2013年だった、ということだ。
その疑問に対する答えにはこのアンボイナ事件がかかわっていることがわかった。
アンボイナ島にあったイギリスの東インド会社の商館をオランダが襲い、商館員を全員拷問虐殺した事件。事件の発生を受けてイギリスは香辛料貿易から撤退し、平戸の商館も1623年に閉鎖しインド、イランへの綿製品貿易に向かうことになる。
この虐殺された商館員のなかにはイギリス人9名、ポルトガル人1名のほかに日本人10名が含まれていた。
日本人のうちの一人平戸出身の七蔵がオランダの城壁の構造や兵の数を探る行動をとったため、不審に思ったオランダ東インド会社が七蔵を拷問にかけイギリスがオランダの砦の占領をしようとしていることを自白させた。(オランダの陰謀説あり)
そこで全員の斬首、虐殺に至った、ということだけどなぜこんなモルッカ諸島の小島に日本人がいたのかという疑問が残る。
それには「関ヶ原の戦い」がかかわっていることがわかった。関ヶ原の戦いから鎖国するまでのあいだに多くの日本人が海を渡った。
なぜか?東軍に敗れた西軍の毛利や小西、宇喜多家などの武士たちは家康による領地の没収や減封といった処分で大量の浪人が発生し、「傭兵」などとなって東南アジア各地に散っていったためという。
人身売買も関係しておりその後幕府はたびたび「人身売買の禁止令」をだすことになる。「たびたび」とはいくらいってもいうことをきかなかったためである。
人身売買はなにも関ヶ原にはじまるわけでもなく豊臣秀吉は「売り手がいるから買うのだ」と開き直るイエズス会に対しきつく注意していた。
慶長十四年(1619年)12月22日江戸幕府が12箇条の「人身売買禁止令」を発布、 続く寛永三年(1626年)4月27日に人身売買を禁止する。まさにこの時期に人身売買が盛んにおこなわれていたことを示す。
「平戸出身の七蔵」は平戸にイギリス商館が1613年に開設されたときに現地で「買われたか」または「買ってもらった」かあるいは契約期間などない無期限の「雇用」(すなわち「買われた」)されたことにより、遠く離れたマルッカ諸島のイギリス商館の兵士としてほかの9人とともに連れていかれて警備につき1623年の事件に遭遇したということでよかろう。
戦国時代を生き抜いた武士たちは当時世界最強の兵隊であったらしく武器などとともに重要な輸出品であった。
スペインから独立したばかりのオランダがもっとも繁栄していた時代にオランダ東インド会社は磁器を大量発注し有田焼が伊万里を積出港にして輸出された。
この事件は第一次英蘭戦争での講和(ウエストミンスター講和条約)のさいオランダがイギリスに賠償金を支払い、オランダが支配していたニューヨークのマンハッタン島を引き渡すことで決着をみた。
そこでまた疑問が生まれる。
マンハッタンはイギリスではなくオランダのものだったのか。
1609年オランダ人の資金援助でマンハッタンにたどりついたのがヘンリー・ハドソンで川はハドソン川と命名され、その後オランダ人の毛皮商人ジュアンがマンハッタンに定住し、はじめてのニューヨークの住人となった。
そしてその後インディアンから「24ドル相当で買い取った」というがインディアンに「土地を売る」という文化や発想はなく、しかも地主でもない部族にお金を支払ったという。
(アメリカにはいまでも日本のような「不動産登記」制度はなく植民地時代以来の未整備なままである。契約後「権利を記した証書ーdeed(捺印証書、不動産譲渡証書)」を「事務所(recording office)に登録する」。建物は土地の付随物とされ登記の対象とならない。権利関係の調整には「不動産権原保険会社」がその役割を果たしている。)
そして、1664年にイギリスが第二次英蘭戦争で勝利したことでこの地をニューヨークと定めた。
拷問され惨殺された「平戸出身の七蔵」がアンボイナまで連れてこられず、また襲撃のたくらみを自白しなかったら、ニューヨークは、アメリカは違う姿になっていたことだろう。
そもそも関ヶ原の戦いがなかったら、あったとしてもあのとき小早川秀明が寝返らなかったら、徳川家康が関ヶ原をさかのぼる「三方ヶ原の戦い」で武田信玄にやられていたら、やられていなくても伊賀越えで忍者の助けがなかったら、このアンボイナ事件も起きなかったとか、「平戸出身の七蔵」が世界史にからんでしまったようにもう次々と手に糸がからみ、足はもつれてくる。
ベトナムの通貨の単位は「ドン」というが、これは江戸時代貨幣鋳造用の「銅」を大量にベトナムに輸出していたことに由来する。
刀剣や銀、硫黄、銅が江戸時代の主な輸出品だった。刀剣に兵士が伴うのは自然ななりゆきである。
平戸をボランティアガイドする機会があればこんな話を伝えて、さらにキリスト教徒の苦難の歴史を知ってもらい、忘れられない味となってしまったひらめをぜひとも味わっていただきたい。
きっと旅がゆたかなものになります。
旅がゆたかなものになるということは人生が味わい深いものになるということです。
平戸天然ひらめまつり | イベント | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット (nagasaki-tabinet.com)
2021/8/15