友人からLINEで連絡があった。
中学のときの同級生と思われる人が実名でFACEBOOKに投稿しているけど、本人だろうかと。
児童養護施設の出身で卒業後の消息はわからないがおそらく本人だろうということになった。
激しい空襲を受けたこの町の戦災孤児の救護施設としてスタートしたそのカトリック系の養護施設には両親がいない、親類縁者に引き取り手がない、親はいてもわけあって預けられたりした子たちが入所していた。
そのFACEBOOKの記事にはカメラや音楽を楽しむ写真がアップされていてなにより北九州への地元愛にあふれていた。
中学卒業後は施設を離れ社会にでて一人で生きていくしかない中でつらいことも多かっただろうなか、こうしてたくましく生活を楽しみ暮らしている姿に胸が熱くなった。
中学の同窓会に出席しているのは一部の恵まれた人たちだ。連絡さえつかない音信不通者、連絡はついてもでたくないと電話を切る人、同窓会の席で話題にも上らない出席者から忘れ去られた卒業生はいくらでもいて彼はその忘れ去られた卒業生のひとりだった。
親がいないというハンディーを背負っていきていくことがどんなにつらいものか想像すらできない。小さな手のひらの小さなこどもの小さな肩にはそんな重たい荷物はとうてい背負いきれるものではない。
世間のきびしい視線のなか、世を恨み、はかなんで、なげやりになったとしてもだれがその子を責められる。
友人とは小中学生のとき施設の子たちのことを少なくとも自分たちはいじめなかった、そしてまわりの子たちがいじめているのを見たことがなかったと確認しあい、そんな子供たちでなかったことを誇らしく思った。
ろくでもない教師もいたがそうした差別やいじめはぜったいに許さないことでは共通していた学校だった。
そしてまた、その施設のスタッフから受けた慈しみや愛情が彼に社会で前向きに生きる力を注ぎこんだのは疑いがない。
そんなとき長崎の原爆で孤児となった子供たちのおかあさんとなって彼らを育てた餅田千代さんとそのこどもたちのドキュメンタリーがNHKで放送された。
孤児たちは施設をでたあとパン屋さんや運送店、飲食店でがむしゃらに働き苦労しながら家族をもち、はじめて「食卓を囲むあたりまえの家庭」を知り、いまでも千代さんのことをおかあさんと慕う。
山田さんがこのひまわりのような「向陽園」がどういうものだったかはわたしたちをみてくれれば、社会に出てからどんな生き方をしてきたか知ってくれればわかるはずだ、といっていたのが印象的であった。
おかあさん、ありがとう。
2021/8/18
8月19日深夜0時Eテレで再放送。