今日、明日と浄土宗のお寺で法要がある。
浄土宗の開祖は法然で、その法然を慕い仏法を説いたのが弟子の親鸞。ともに平安末期の末法の世に現れた、末世の仏門へのプロテスタントだ。
「親鸞」(下)
「なむあみだぶつ、とは南無、すなわち帰命する、ということでございます。帰命するとは、すべてを捨てて仏の前にひれふすこと。なにもかも、すべておまかせして信じ、決して迷わない。その誓いを南無というのです。
そして、あみだぶつ、とは阿弥陀如来という仏さまをお呼びする声。阿弥陀さまは、自分の名を呼び、仏に帰命するすべての人びとを、わが子のようにわけへだてなくすくい、浄土に迎えようと固く誓われた仏さまです。
身分のへだてもなく、男女の区別もなく、穢れた人も、罪深き人も、あらゆる人びとを抱きしめ浄土へ導いてくださる、そのような仏さまこそ阿弥陀仏。その慈悲におすがりする声が、いまわたしたちが唱えておるお念仏です。このお念仏ひとつですくわれる。はかなきこの命尽きるとき、だれもが必ず浄土に生まれることができる。」と
まず、おのれが誓いを立て、そしてその上で阿弥陀仏をお呼びするという阿弥陀仏への問いかけであったことすら知らずに、この年になるまで知ろうともしなかった。
念仏とは「仏縁を思いださせようとする仏からの呼びかけにこたえる声でもあろうか」という。
阿弥陀さま、阿弥陀さま、
わたしはここにおります。
おのれを無にし、迷うことなく、あなたさまに身を委ねたいと存じます。
どうぞお導きください。
念仏をそんなふうに理解し、唱えたいと思う。
「これまでの仏の道は、国を守るもの、朝廷の安泰を祈るもの、貴族や高家のためのものでした。
この国に仏の教えが伝えられたときから、ずっとそうだったのです。豊作を祈ったり、雨乞いをしたり、流行り病をとめたり、怨霊の祟りを断ったりするのも、世間の人びとのためというより、国の安泰を願うための仕事だった。でも、法然上人はそんな仏の道を一変させてしまわれたのです。
学問のための学問でもなく、呪術でもなく、国家や朝廷のためだけでもない真の仏の道を、はじめてきりひらかれたのですから。」(恵信)
そして、異端の渦にまきこまれる。