「道の駅甲斐大和」―140 2023/7/7

6月18日の「道の駅 こぶちさわ -139」に続き白州の天然水を汲みにいく。

先月はちょうどさくらんぼの季節で南アルプスのJAはにぎわっていたなぁ。ちょいとさきのカインズホームの甲西店をのぞく。やはり新規開拓すべきだね。このあたりきっての大型店だからお目当てのものを手にいれることができた。郊外にきたときでないと大型ショッピングセンターがなくて欲しいものが見つからないのが都区部の住民の悲しさ。


深夜、午前1時半に暗闇の白州の水汲み場で「水を汲んでいた」ときに、だれもやってくるはずはないとたかをくくっていたところ50代と思われる「おばさん」が暗闇の中姿を現した。そして黙々と「水を汲み」はじめた。

こんな深夜になにごとだといぶかしく(おまえもやろが)思っていた。あいさつもない。

しばらく暗闇の中隣り合って無言で水を汲むぶきみな時間がすぎていく。

すると、男の気配を感じとったおばさんのだんなが心配になったのか、様子を見にきた。

「水を汲んでいた」ぼくに、

「水汲みですか?」ときいた。

見ればわかるだろ?といいたかった。

怪しい人に声をかけるとき、おやっさんはほかに言葉の探しようがなかったのだろう。

おばさんのあいさつがなかったことに「なんだこいつ、あいさつもせできないのかよ」とむっとしていたぼくは、生返事で「水汲みです」と意味のない問いかけにそっけなく返事した。

このおだやかでない返事にたじろぐべきところ、

おやっさんは「どこからですか?」とさらに続ける。

ばりばりの益子焼の栃木弁だった。

U字工事、この赤いネクタイのほうのしゃべりかた。

一気に場が和む。肩の力が抜けほんわかとなる。

そして「和をもって貴しと」聖徳太子化した。

もし、おっさんが東京の人で、

「きみはこんな夜中になぜ水をくみにきているんだい?」なんて声をかけてきたら、

そして「ぼくのワイフに手をだしてなんかないだろうな」なんておよそ手を出される確率0パーセントのおくさんを前にいいだそうものなら、もとはいなかもんの質の悪い東京人同士の真夜中のバトルとなるところだった。

方言はいい。とくに栃木。抑揚と間合いに不思議な力がある。土地の人柄がそうなのだ。関西弁は鼻についていらつくことがあって嫌われやすい。こんな二人が会社におれば、役所におればどんだけ、どんだけどんだけ~となるか。

津軽もいいがほとんどフランス語でそもそも何を言っているかわからない。

人と人が最初に交わす言葉は「握手」とおなじかもしれない。

あなたに敵意はもってません、ほら、武器も持ってない、よろしくと。

であればこそ、街で声を掛けられる可能性0パーセントのおばさんが暗闇から現れたとき、おまえのほうから気の利いたことばをかけんかい!

うそでもいいから、いいたくなくても、「おくさん、美人にはこんな暗闇は危険ですよ。」とか

「夜のわけありのご商売ですか?」とか、

このあたりは気取り屋のイギリス人だったらウイットにとんでスマートだね。


七夕の日の水汲み場には地元のこどもたちの短冊がたくさんつるしてある。移住を考えていた町。週末用にアパートを借りようとしていたまち、どうかこの水をまもってね。

さて、今回の目的は桃の仕入れと地方発送、ついでにワインと。

白桃は高品質ながら手間がかかり傷みやすいため農家が品種を「浅間白鳳」に変えていっているとのことだった。桃農家の後継者問題も漁師さんともども深刻。今年は昨年のような盗難もまだ1件しか報告されていない。収穫目前の桃を盗んでいることから昨年多発したベトナム人のグループとは違うようだ。

11枚の送り状に住所を書き込みながら、みなさんお元気でお暮らしのことを祈りつつ、お礼をしなければならない遠く離れたご家族のことを想い浮かべる。まるで桃に託した年賀状。

いつものように55歳の二代目社長お任せでいちばんいい時期に発送してもらう。農家からの入荷は日によって刻々とかわる。どっとでるときもあれば今日のように午前中で作業が終わることもある。

きょうはゆったりお話をすることができた。会長は91歳になり幾度も命に係わる病に倒れたがそのたびに乗り越えてきた。いよいよ施設でのお世話になることになった。商売っ気のない、いつも椅子に座って微笑んでいて、いまの社長もまだ若く青二才で頼りなく見えたものだ。娘が保育園のときからのおつきあいだもんな。暑い中の作業だからとビールひとケースを差し入れる。

今年はすべて株の値上がり益でまかなうことになった(#^.^#)


お世話になった方々の喜ぶ顔が目に浮かぶ。

宅急便が家の前で停まり、インターホンが呼ぶ。玄関を開けると汗をかきかき配達員がお届け物です、と品物を差し出す、そしてそれを受け取ったご家族が「うわっ、桃!」と普段着の顔が一瞬で笑顔に変わる(だろうことを)のを目に浮かべる。

特に九州方面では桃はなじみの薄い果物で喜んでいただいてもらっている。

これは贈答品にならない傷物を贈答品のおよそ半額でわけてもらったものだけど、味はもちろんかわらない。一見傷物とは見分けがつかない。

今年40歳の娘さんをがんで亡くした近所に住む妻の知り合いにも仕事をいただいたこともあってこのはねだしものをひと箱お分けした。たまたまタイミングよくその夫と幼子二人が世田谷から泊まりにくるそうで、うれしくなった。

株でも儲かった、楽しい時をすごした、旅行でおいしいものをいただいた、そんな喜びとは違うこころの底からじわっと上品な甘い桃の果汁がしみだしてくるような、そんな満足感あふれる喜び。

熊本の大地震ときに被害が甚大だった益城町の先輩のお宅のことが心配になって、いてもたってもいられずポリタンク5個の水や支援物資を車に満載してお届けさせてもらったときと同じような気分。

そのとき、不思議なものでわたしにお役に立てる機会をくださってありがとうと思ったものだ。どんなに小さな、ささやかなことであってもこんな思いを、機会をどれだけもてるかということがその人間を図るものさしになるのではと思っている。


そのほかにあたって黒ずんだもの、傷のあるもの、日陰者も日の出屋の社長におまけでたくさんいただく。はねだしものとこればかりは現地にいかないともらえない。

梅雨明け前の34度の甲府盆地のみずみずしい桃、これを家族でばくばくかじりつくとまもなく夏本番を迎える。

 

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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