沖縄作戦を前に菊水作戦参謀会議に出席していた30歳の末席にすぎない美濃部は「4000機の練習機の全機特攻やむなし」の大本営の作戦方針に対し連合艦隊主席参謀に向かって死を賭して真っ向から異議を唱えた。
練習機までも特攻に使用するなどもってのほか、グラマンにたちどころに撃墜される、
「若い搭乗員のなかに死を恐れるものなど誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義を有し、しかも死して甲斐ある勲しを樹てたい。単なる空念仏では心から欣び勇んで立てないものがあります。同じ死ぬなら確算ある手段を立てて戴きたい。」と。
こんな将校が日本海軍にもいたのだ。
隊員を特攻にだすことなく、空母から伊江島に揚陸させた数百基機の米軍機に対し夜明け前に空爆を敢行し焼き払っている。飛行場をカモフラージュして秘匿し、夜間攻撃に徹して米軍に立ち向かった。
感心したのはこれだけの書き込みがあるウイキペディアの記事についてだった。
美濃部さんは戦後、航空自衛隊を経てデンソー工業学園の学園長を最後に引退されている。
オリンピック作戦では志布志湾に上陸が予想され、米軍は九州上陸にさいし原爆を複数個投下する予定だった。