西進次郎さんは学徒兵として硫黄島に着任し、米軍の上陸2週間前に内地に移動した。
中央大学から学徒動員された「航空機の整備兵」の伍長と紹介されているが、正確には戦闘機の2丁の胴体機銃の発射とプロペラの同期の調整を行っていたとのことだ。(同期がうまくいかず機銃弾がプロペラを打ち抜いてしまうこともあった)
四式重爆撃機「飛龍」で着任した硫黄島はすでに爆撃で破壊されており、西さんはこの戦いはすでに終わっていることを確信した。
このバレル・バレー・プラハの敷地内に特攻隊の関連施設があり、オーナーの山本正博さんがここから出撃した隊員を慰霊するために慰霊碑と記念館を設けた。
毎年8月15日には霧島神社の神主の島津さん(島津家直系)を招き慰霊している。
空襲から守る掩体壕の前に記念館はある。
記念館の設立の趣旨と目的は、
敗戦を知った14日、そして15日の夜明け前、宇垣纒司令長官が5人の若者たちを道連れにして特攻に飛び立ったことへの憤りも綴られている。
ガイドブックに載らない私設の記念碑をめぐることができた。
待ち合わせをして案内してくれた人の奥さんの実家が鹿児島にあって、昨年その実家の隣家を購入しリフォームして東京から家族4人で移り住んだ。
その「隣家」が故西進次郎さんのお宅だった。
だから生前の西さんのことを伝え聞いており、
この記念館に寄贈された木製の艦船と水上機は西さんが自ら庭に生えた樹を切り出して制作されたものであることなどを知ることができた。
重巡「愛宕」
零式3座水偵
周囲には新茶の摘み取り前の美しい茶畑が、霧島市の平和な景色が何事もなかったようにひろがる。
前日、急に熊本益城町の長田さんからお客さんに電話があったという。
鹿児島空港の近くのお宅で仕事の打ち合わせをする、
その知らせに驚いたお客さんが時間を尋ねると午後2時ごろにお邪魔する予定だと。
私たちの待ち合わせ時間が午後1時。
見学後その、見ず知らずの上野さんのお宅で長田さんと久しぶりにお会いすることになった。
玄関先でごあいさつだけと思っていたらリビングに通され、ご主人ともどもいろんな話をさせていただくことに。
「なぜ、記念館にいらっしゃったのですか?」
ー 太平洋戦争史について調べています、、、
「じつは私もで、呉の戦艦大和ミュージアムに4度いきました。」
ー えっ!
「模型もつくりました。」
ー えっ!ディアゴスティーニですか?
「お見せしましょう。」と寝室へ案内される。
「次は空母赤城を組み立てます。すでにセット買いをしています。」( ^)o(^ )
東京の超大手企業の部長で退職した先輩であった。
いやはや、話がとまらない。
私が鹿児島にいくことは一生に何度あるか、しかも鹿児島空港にいくことも皆無だったし、まして4月11日、さらにまして午後2時に、あたりをうろつくなかで、
熊本在住の長田さんが4月11日の午後2時に私たちから車で5分もかからないところに仕事にきていた、、、
前日の1本の電話がつないだ再会。
人生はひととの出会いで繋がり、その糸で紡がれている、とするならばまさにこの日のできごとはそれを証明するかのようだった。
毎年4月半ばに送ってくださる植木のすいか。