松江観光協会の地図に手を加えてみました。
戦争が終わって11年たった昭和の時代にこの小さな町の駅前商店街で生まれました。松江には周辺を含めさしたる軍需産業もなく数度の軽い?列車や水上戦闘機などへの戦闘機による銃撃はあったものの「爆撃」による戦争の被害は受けなかったといいます。
そのため市内は城下町の風情をそのまま残し、いまでは日本観光で京都や東京を卒業したほんとうの日本らしさを求める観光客に人気のまちになっています。
私たちが住んでいた地域が寺町に近かった、たくさんの寺はお城を守るために松江大橋のたもとに集められた、こともあって街並みも幼いころと変わっていません。そのためかいつ訪れてもいまにも亡くなった祖父や祖母、おじさん、おばさんたちに会えるような錯覚を覚えます。
お城の築城は江戸時代で開府1611年、関ヶ原の後のことです。
祖父は出雲、祖母は恵曇(島根半島の漁港)の出身で、祖父は食料品の問屋をここで構え、住み込み、お手伝いさんを含め10人ほど従業員がおりました。スーパーマーケットが衝撃をもって登場(たしか、「みしまや」だったと思う)するまではすでに株式会社ではありましたが問屋はそこそこ繁盛していたのです。その長女が私の母で父とともに旧制松江中学(いまの松江北高)で学びました。
母は長女であったために家業のために養子をとりました。お店の従業員として働いていた父がそうです。
母には弟が3人おり、長女とはいえ養子の身の窮屈さに嫌気がさしたのか父はお店をとびだし取引先であった広島の大きな問屋さんのお世話になることになりました。
そして、その広島の問屋さんが北九州に営業所を開設することになり、父は私たち家族を当時工員さんがあふれ煙突と煙だらけだった高度成長期の鉄の都、八幡に呼び寄せました。
9歳の少年には城下町のたたずまいや美しい夕日よりも八幡製鉄所の起業祭のにぎわいのほうが輝いて目に映っていたのでしょう、工場地帯のくすんであらっぽい町でしたがなんとかなじめたように思います。
けれどもこの城下町のよさをがわかるようになるまでにはその後何年もの歳月が必要でした。この城下町のもっている静けさや風の音、流れる雲からもれる夕日、宍道湖のさざ波、お茶や和菓子の文化や、掘割のたたずまいを理解する感性があたりまえのことですが熟していませんでした。
そしていっぽうの煙突の町のよさを知るまでにはさらにその後数年の単身赴任での勤務経験が必要になりました。
私にはふるさとが松江と八幡のふたつあることになります。
わたしはそのふたつのふるさとの、松江のどんより曇った山陰の重苦しさをそして八幡のよどんですさんだ気質を受け継ぎました。
つまり、やさしくおだやかさの中にある陰険さと荒っぽく乱暴な中にあるやさしい情愛とを。
さらに40年に及ぶ横浜、東京暮らしが私をごちゃごちゃにしてしまいました。ただ、自分の中で二つの町はいまでも建物の柱を支える大きな礎石となっていて、こころの中に風景や情景の風がときおり吹いてくるのです。
郷土の歴史を学びぶといろいろなことがわかってきます。学ばないと何も見えてきません。松江も一般家庭の事情と同様いいことばかりではなく松江藩はその成り立ちから屈折しています。
数年前、JALの機内誌で幕末、外国船が来航する中、松江藩や幕府の無策に業を煮やした隠岐の島の住民は派遣されていた松江藩の役人を島から追い出したため、怒った松江藩士たちは島民を斬りまくった、ということを知りました。
この歳になるまで知らなかった。隠岐の島の子孫の方たちがどんな思いでいるか考えたこともなかった。
2019.8.12