1979年3月、22才のときのことだ。
友人と二人で一カ月近く安宿に泊まりながらヨーロッパの町をあほみたいにうろついていた。
ハンブルグからイングランド、パリ、マドリッド、グラナダ、トレド、バルセロナをまわり、そこからはベネツィアに行きたいという友人とドイツで本場もんのビールを浴びるほど飲んでみたいという私はそれぞれ一人旅をすることにして、ウィーンで落ち合う約束をした。
ここからは別れようというと英語が中学生以下の友人はおこられてうなだれたわんこのように不安そうな顔をした。それがいまではベトナムハノイでビジネスマンとして活躍しているから世の中わからない。
当時、欧州の鉄道の一等車乗り放題の「ユーレルパス」という夢のようなチケットがあって気分次第気ままに行き先を決めた。
そして、トーマスクックの時刻表を片手にどの列車に乗るかを決める。これがあてのない若者のばかみたいな旅の醍醐味だ。
その日はスイスのチューリッヒからウイーンに向かう列車の出発までの時間を駅の立ち飲みビアホールでぐびぐびやってすごしていた。
街はなにやら騒がしく、見るとお祭りをやっているらしい。子供たちがパレードをしている。
すると、同じように立ち飲みをしていた50歳くらいのおじさんが「パレードをやっている。」と笑いながら声をかけてきた。
ー「楽しそうですね!」と答える。
「どこまでいくんだい?」
ー「ウィーンです。」
「そうかい。私もこれから同じ列車に乗るんだ。いっしょに行こう。」
一等車の6人掛けのコンパートメントに二人で座り、日本のこと、横浜の大学で経済学を専攻していることなどを見ずしらずのおじさんとしゃべっていた。
エコノミックス、というとアクセントが違うと訂正された。
スイス人にいわれたかないとむっとした。
そうこうするうちに車掌が改札にやってきた。
当時、日本のパスポートは絶大な信用があった。
狂ったドイツと組んで世界を相手に戦争したことを反省しどん底からはいあがって信用をとりもどしてきた結果だ。
雑多な人種の集まるヨーロッパには素性の良くないジプシーのような人たちもいてひと悶着するようなこともあったから誇らしかった。
わたしは水戸黄門の印籠の「ユーレイルパス」を見せたが、おじさんはチケットをもっていなかった。
かわりに身分証明書を車掌に見せた。
すると、まじめのかたまりのような背の高い車掌はびしっと背筋を伸ばし直立して敬礼したのだ。
いったいあんたは何者ですか?と聞くと
「Statesman」だという。
政治家。
国内だったら身分証を見せるだけでどこへでも無料で行けるという。
しばらくすると、おじさんはへんなことをいいだした。
「おまえとベッドに入りたいんだが、どうか?」
「いやならいいんだ、はっきりノーといってくれ」
意味がわからないかと思ったのだろう私の股間をぎりぎり寸止めで指さして(少しあたったような気もする)、
そのものずばり「これが欲しい」といった。
欧米人に同性愛者が多いことは知っていた。
おじさんはアジアの若者を食べてみたくなったのだろう。
駅の立ち飲みで今晩の相手を物色していたのだろう。
横浜駅のダイヤモンド地下街で今回の連れといっしょにナンパしたことはあったがナンパされたことはない。
いまは見る影もないけれどそのころはいまでいうジャニーズかわいい系で何人もの女の子からうらやましがられたこともあったのだ。
「欲しい」といわれてもまだ22歳の未来きらめく若者のこれから長らく大事に使わなくてはならない大切な部位であるからしてそうは簡単にあげるわけにはいかない。
おじさんでなく相手が青い瞳のスイス娘だったらあげてもよかった。
「ノーなら、オーストリア国境を越えられないから次の駅で降りる」という。
「ウィーンに行く」といったのは嘘八百であたいの清らかなやわ肌が目当てだったのだ。
そして、ノーといったらほんとうにおじさんはすたこらさっさ国境の駅で降りてしまった。これがアメリカだったらやられていたかもしれない。
もう夜になっていたし、おじさんはその後どうしたんだろうか。
あのとき、バンジージャンプのように意を決して一夜を共にしていたらまちがいなくおいらの人生はかわっていたはずだ。
男に目覚め、もしかしたら新宿二丁目のゲイバー「九州男」で働いていて、常連さんだったフレディーマーキュリーに見初められ、愛人になっていたかもしれないのだ。
そしてクイーンのメンバーとなってウエンブリースタジアムのステージでほら貝を吹き三味線を弾いていたかもしれないのだ。オノヨーコかチューリッヒのハタボーかと騒がれたろうがいまとなっては後の祭り。
あおりをくったジムハットンはフレディーの愛人になれずにそのままホテルのボーイをやっていただろう。
2020/7/7