2020年7月18日

1945年6月29日と7月2日、下関に焼夷弾を投下

B29は爆撃の前にまず市街にガソリンを撒いた。焼夷弾で家屋を燃えやすくするために。

そして戦争末期の空襲で下関の21万の人口が15万人までに減った。

花火大会はもともと死者への弔いのために江戸時代にはじまった。関門の花火大会は被災者の慰霊の意味もあるのだろう。


「アメリカは日本全国の港湾に投下した一万発をこえる機雷の半数、約5000発以上を関門海峡に投下した。これは、日本本土への食料輸送網を断ち切る『海上封鎖』『飢餓作戦』と称して強行された。関門地域では3月27日夜、B29 99機が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく投下した。」(長州新聞2015.7.1)


触雷による被害を追ってみた。


1945年

5.23 部崎灯台沖 貨物船「第二神影丸」沈没

     若松沖   貨物船「相模丸」沈没

5.24 部崎灯台沖 貨物船「辰稲丸」沈没

     白州灯台沖 貨物船「第14快進丸」沈没

5.25 関門海峡東口 油槽船「松島丸」沈没

5.26 部崎灯台沖 貨物船「第6宮川丸」沈没

     六連灯台沖 貨物船「第一日産丸」沈没

5.28 部崎灯台沖 貨物船「東都丸」沈没

5.30 関門海峡  貨物船「香澄丸」「神代丸」沈没

5.31 若松沖   輸送船「北京丸」沈没

     六連灯台沖 貨物船「弓張丸」沈没

ここからは終戦後の23日までほぼ毎日のように触雷による沈没が記録されている。


本来ならば外地からの引き上げ船は門司ないし下関に着岸するべきところ、これらの機雷のために長門市の仙崎港に変更された。水深が深く大型船が多数接岸できたためという。

長府新聞によると、

「下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本における最大の軍事的要塞地帯として築かれてきた。貴船町には要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。火の山、後田、金比羅、戦場ヶ原、彦島などに砲台を備えた要塞があり、また、小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦斗機隊、吉見には第七艦隊の主力の下関海軍防備隊が配置されていた。また彦島には三菱造船があり、長府にも神戸製鋼など大きな軍事工場を抱えていた。
しかし民家の密集した地点への焼夷弾攻撃や、機雷によって民衆にこれだけの惨害を強いる一方で、これらの軍事施設、三菱や神鋼、幡生の鉄道工場、関門トンネルなどは無傷のままそっくり残された。」


横須賀には海軍の主要な艦隊基地があったのに軍の港湾施設は進駐後、占領後を見越して無傷で残したのと同じだ。

八幡の空襲のことばかりに目をとられ、下関の大空襲(西日本では広島に次ぐ規模)や関門海峡の機雷についての被害について悲しいくらいに無知であった。

それは学校の授業において福岡県の歴史を学ぶことはあっても隣県の出来事には幕末をのぞき触れらることはなかったからでもある。


さらに長府新聞の記事を引用する。

被害甚大な清和園 炎に包まれ80人が焼死

市内でもっとも被害の大きかった地域として、幸町の清和園の惨劇が語り伝えられてきた。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま焼き殺された。1970年代なかば、同地に市立幸町保育園が設立されたとき遺骨が発掘されたのを機に、保育園と地元の有志が相談して、犠牲者の慰霊のための「幸せ地蔵」が建立された。毎年、犠牲者を慰霊する地蔵祭りが催され、子どもたちの未来のために平和への決意を新たにしている。
清和園に住んでいた祖父を亡くした女性は、『清和園の方は空襲から2日ほど経ってもまだ煙が上がっていた。3日後にようやく祖父を捜しに、草履で清和園まで上がったが、まだ地面が熱くてたまらなかった』と語る。まだ2、30人の死体が散乱していた。その惨状は、卒倒しそうなものだった。切腹したのか、腹から腸がはみ出したまま死んでいる憲兵、畑の肥壺の中に足だけを出して逆さまに死んでいる人、赤ん坊を背負ったまま、子どもをかばって仰向けになって死んでいる母親とその子ども……。
『祖父の遺体は、ポケットから見えた水道の栓につけていた名札からわかった。時計だけがカチカチ動いていたが、私たちが、おじいさんと声をかけた途端、祖父の鼻から血がどっと出た。まだ、体から煮え血がたぎる音がしていた。遺体は集団で荼毘(だび)に付すから、いるなら指だけでも持って帰るようにと憲兵にさえぎられて、祖父の体を家に持って帰ることすらできなかった』
このほか、岬之町では、岩盤の防空壕の上が焼かれ、壕内では市民が蒸し焼き状態で殺されたこと、大正通りの建物に逃げた市民が布団をかぶったまま集団死した姿で発見されたことなど、痛ましい犠牲については枚挙にいとまがない。」

高台の私立幸町保育園


 



角島のある豊北町に原子力発電所がつくられようとしていたことも知る。

中国電力  山口県豊北町(現下関市)

1971年
・原発計画が明るみに出るも漁民の反対が強く計画は見合わせとなる。
1977年
・再度原発計画が表面化、県も推進姿勢をとるも漁民の反対やストライキが起こる。
1978年
・反対派の町長が当選し、町議会も建設拒否を可決、県と中国電力に建設拒否を通告。」


あの美しい角島大橋、賑わう豊北道の駅はなかったかもしれない。

原発からでる海水温の上昇で海藻が育たず、魚はとれなくなる。なにより原発は制御不能の神の火。豊北を断念した後かわりにわたしのふるさとの松江におそらくは漁師たちに金をばらまいて、漁協や漁師たちを仲たがいさせながらつくってしまった。


幼いころいとこたちといっしょに毎年夏に海水浴をした原発周辺のかつての美しい海岸といくつもの小さな漁村をおそらくこれまでで一番楽しかった夏休みの記憶を再生しようと大学生の時に回ってみた。

巨大な原発と補償金とひきかえに漁師をやめた漁村に活気などあるはずはなく、老人たちは退屈気にぼんやり生気なくとろんとした目をして暮らしていて、もうくるところではないなと思ったのを思い出す。


ぼくの夏休みは原発とともに終わったなと確信し以後訪れることなく島根半島の思い出は封印され、あらたに白浜と岩場が点在する陽光まぶしい南伊豆に足しげく通うようになる。

2020/7/18

Comments

2 thoughts on “1945年6月29日と7月2日、下関に焼夷弾を投下

  1. 関門海峡一帯はB29の攻撃が多かったようです。
    1945年5月には門司区奥田5丁目付近に11名乗りのB29が墜落し10名が死亡。1名が捕虜となったそうです。
    その残骸は市にも寄贈されましたが地元住民でも保管している人がいるとか。
    亡くなった10名の方の為に広済寺で弔ってあげたそうです。

    1. 最重要拠点だったわけですね。
      当初小倉に落とす予定だった原爆を長崎に変更した理由は数日前の八幡製鉄所の空襲による煙で視界不良が原因だったといわれていますが、その後の調べによると小月基地から発進した陸軍の「屠龍」が上空空域の哨戒任務にあたっていたことを知り変更した、というのが理由のようです。
      八幡の空襲のさい二度体当たり攻撃され、3機のB29が撃墜されており、「屠龍」は恐れられていたのです。
      そのときの墜落機の後続のB29のパイロットはあの原爆投下を指示したトルーマンの息子でした。

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