幕末にはまるとこうなる。


幕末とは一般的にはペリーの黒船4隻の浦賀来航1853年から明治維新までのたった16年のことをいう。(ペリーに先立つ1739年のロシア黒船の来航、オーストラリア捕鯨船の厚岸上陸などそれ以前から列強による外圧でじわじわ幕末は近づいてきていたのだけど)

このたった16年のために魂をもっていかれた人たちがいる。

この出版元の人文社さんもその一人で「江戸古地図」にずぶずぶどうしようもなく浸かってしまっている。


歴史の教科書、それが高校の日本史の教科書であってもこの16年の出来事を限られた紙面では説明しきれない。幕末だけで1冊でも足りないかもしれない。

当時の麹町の「尾張屋清七」という版元が江戸の克明・詳細な地図を出版している。現代のゼンリンの住宅地図を思わせる。


現在、老中首座安倍晋三周防守より「不要不急外出禁止令」がだされ、江戸市中の物見遊山はできなくなっている。

そこで、この尾張屋の「古地図」で在宅江戸巡りをすることにした。

いまの麹町、永田町。城下桜田門あたり。

家紋があるところが門だから門を頭にして縦に横に大名の名が記されている。

大名屋敷は無地。神社仏閣は赤、灰色は町屋。町人は名字をもたず長屋で暮らしていた。町屋に瓦の使用が許可されるようになるのには度重なる地震と大火を待たねばならなかった。


江戸城よりを拡大してみる。

左に目をやると彦根藩35万石井伊直弼の屋敷と大雪の3月3日攘夷派の水戸浪士に暗殺される舞台となった桜田門、右にはなぜだか主のない家紋だけの大名屋敷がある。

この大名屋敷は

長州藩主毛利敬親の上屋敷。

この絵図が世にでたのは元治元年(1864年)8月のこと。


前年の文久3年には新選組の結成、5月に長州藩が攘夷を実行し下関で米艦を砲撃。

7月には生麦事件を発端にした薩英戦争が起き鹿児島が砲撃される。

翌年、

元治元年6月におなじみ池田屋で長州の志士たちが新選組に襲撃される。

7月長州藩が京都で挙兵(禁門の変)し、都を焼いたが会津・薩摩・桑名藩に完敗し敗走。

そして、長州藩が下関で4か国艦隊を砲撃し、下関の砲台を占拠される。

しかも幕府の許可も得ず、高杉晋作たちが下関を勝手に開港してしまう。


ついに8月、幕府が薩摩以下35藩の出兵を命じる。

すなわち第1次長州征伐。


幕府の敵となった長州藩の屋敷は幕府により「召し上げられていた」のです。

それで「無印大名屋敷」となった。

幕末を考える上で長州の高杉晋作や久坂玄瑞、吉田松陰をどう見るかで評価が分かれます。

関が原にはじまる幕府に対する積年の恨みからくる「暴走するテロリスト集団」とみる向きも多い。

伊東博文など国学者の塙保己一の息子を山尾庸三とともに暗殺している。「男になるためだった」とみられているが本人はむにゃむにゃごまかしている。

暴走と事実を認めようとしない長州の血は現代の老中首座の安倍晋三周防守にも受け継がれているのだろう。

2020/5/27

作成者: user

還暦を迎えてますます円熟味を増す、気ままわがまま、ききわけのないおやじ

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