西ベルリンに入る。
日本人は珍しいのか東ベルリン側の検問所の係官はパスポートを眺めながら興味深そうにいろいろ質問してくる。
そして出国の申請書に記入したにょろにょろへたったアルファベット見て、「これお前が書いたんか?」と笑った。
要するにやつは暇で遊んでいた。日本の公務員のように職務に忠実ではなかった。
ドイツでも笑いものにされた。
闇で購入しておいた護身用のルガー(ナチスの拳銃)に手が伸び引き金に指をかけた。
東ドイツの情操教育、役人の指導教育がまるでなっていないこと、字が下手でつらい思いをしている人を思いやる気遣いのなさが証明された瞬間だった。
字が下手なおいらにとってこのころ登場したワープロは火薬や印刷機やダイナマイトなんかの発明発見よりも大きな出来事だった。
練習し、きれいな字を書こうと丁寧にかこうとするほど手は汗ばみ、字は「下手な字がより下手さがきわだって鮮明にくっきり」となっていった。
西ベルリンは街そのものが共産国に向けた西側国家がいかに自由を謳歌してるか「天国よいとこ一度はおいで」と見せつけるためのショウウインドーで、明るいショップ、妖しい映画館やら多くの車なんかであふれていた。
これ見よがしの政策的なあてつけだった。そうするといきおい新宿歌舞伎町のような猥雑な雰囲気となる。
カメラを構えるとKGBにガン見される。
「Worauf schauen Sie sich das an?
Was machst du hier?
Du bist ein Spion? Ich nenne dich Gestapo.」
「きさん、そこでなんしおんか?
くらしちゃる!」
またルガーに手が伸びる。
ブランデンブルク門にいってみる。
そのころバッハのブランデンブルク協奏曲ばかり聞いていたからしばらく口を開けて感慨深く見上げてながめた。
1945.7 Berlin
これは西ドイツ、北部の都市ケルンのおもちゃやさん。大嫌いなお土産やではない。
北欧神話のトロールがいる。いまでこそメジャーなキャラだけど当時は「三匹のヤギのガラガラドン」も読んでいなかったし、ただの赤鬼にしかみえなかった。
その両脇の魔女みたいなおばさん二人が気に入り箱に詰めて日本のおじさんのところに送った。
鎌倉大船のM菱電気の工場に勤めるインダストリアルデザイナーで趣味で造形作家みたいなこともやっていたから喜ばれるだろうと。(案の定いたくひどく気に入ってくれた)
ベルリンから南へ。ライプチッヒのホテルのバーでそのケルンからきたビジネスマンと飲んだ。ホテルの外は赤ちょうちんも居酒屋の類はなんもなくホテル飲みよりほかはなかった。
ライプチッヒで「メッセ」があってそれにきている。という。
幕張メッセなどなかった40年前で、メッセの意味が分からず「メッサ―」(ナイフ)?、「メッサーシュミット」?などとんちんかんに聞き返してしまった。
すると見かねたバーテンダーが「FAIR」(商品市)のことだと助けてくれた。
ケルンの大聖堂は爆撃の被害を逃れた。
「まわりは破壊されたけど大聖堂だけは残った。」という。
「Warum?」(どうして)と聞き返す。
ビジネスマンは待っていましたおっかさんとばかりに両手を合わせ下を向いて、
「お祈りしていたからだ」と。
これは相手の答えを先読みした問いかけですでにおやじのあざとさの萌芽がここに見える。
あらかじめ返ってくるであろう答えを想定して問いかけ、思うつぼの答えを引き出す、といういやらしさをドイツでもさく裂させた。
ただし「相手が待ってましたと喜ぶ答え」の場合にしかさく裂させてはいけないことも知っていた。
ケルンの大聖堂への爆撃はターゲットから外しただけのことだろう。
長崎の原爆は曇りで投下をあきらめかけたときに雲の切れ間から市街が見えた。そして浦上の上空から投下した。
予定していたターゲットではなかった。
そこは天主堂があってキリスト教徒や被差別部落の人たちが多く住む地域だった。
多くの人たちが一瞬で犠牲となり、生き延びた人たちもその後被爆者となってさらなる差別に苦しむことになる事実はケルンの大聖堂のこのお祈りと重ねどう理解したらいいのかわからない。遠藤周作の「沈黙」のシーンと同様、何故?と問いかけたくなる。
2発の原爆をもってしても日本が降伏しない場合、九州に上陸し地上戦が繰り広げられる予定だった。
宮崎と鹿児島の2方面からの上陸作戦が検討され、そのためにそれぞれ3個の原爆が用意されていた。9月にさらに6個の原爆が投下される可能性もあった。
このあと東ドイツ南東部の州都ドレスデンを訪れるのだけれど、そこはほぼドイツの敗北が決定的となっていた大戦末期の1945年2月、昼間はアメリカのB17,そして夜間は昼間の爆撃で燃える市街地を目指してイギリス軍のランカスター爆撃機が軍需工場などなかった市街地に昼夜たがわず連日爆撃を行っている。
「ドイツのヒロシマ」といわれるほどの多くの一般市民が犠牲になった。
やらなくてもいい爆撃をロンドン大空襲の報復でやった、といわれている。
すざまじい爆撃のあとの瓦礫をそのまま残してあって、見学できるようになっていた。
たまたま通りかかったナチス党員だったらこわかっただろうなと思えるユダヤ人収容所の所長のようなおじさんが案内してくれた。
その口ぶりは「アメリカーナがやった」といまだに怒りが収まらないようすで、何度も「アメリカーナ」とこぶしをあげ叫んだ。きっと家族を失ったのだろう。
あいつらが参戦しなかったらイギリスを打ち負かしていたのにという悔しさ(2度も!)
そのアメリカをドイツとの戦争に引きずり出したのは真珠湾攻撃だけどね。
同じ敗戦国の日本人だから話してくれたと思っている。
切手のコレクションが趣味でヤーパンの切手が欲しいといわれ何度か送ったりお返しにおじさんは送ってくれたりした。
どれも印刷の雑な図柄も味気ない東ドイツの切手だった。
敗戦と占領を37年経てもいまだに重く引きずっている分断国家。
旅をするときはできうる限りあらかじめその国の歴史をしらべてから行く。これは礼儀だと思う。
韓国に観光旅行にいった若い娘さんたちがタクシーのおじいさん運転手に、
「おじいさん、日本語上手ですね、どこで習ったんですか?」と聞いたという。
そのおじいさん運転手の心中はいかばかりか。こんなことは絶対にあってはならないと思うのだ。
2020.10.21